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オーストリアの黒い耕夫
アーノルド・シュワルツェネッガーの生まれた国、オーストリアの正式名称は「オーストリア共和国(ドイツ語:Republik Österreich、英語:Remde222_prd.of Austria)」
中欧(中央ヨーロッパ)に位置し、人口は約830万人。
首都はウィーン。
国土をドナウ川が東西を横切って流れ、ドナウ川の西はドイツ、東はハンガリーにつながっている。
オーストリアは過去に3回、異なる民族、異なる宗教、異なる思想と対峙した。
1回目はローマ帝国、2回目はオスマン帝国、3回目は共産圏である。
2回目と3回目は最後にはオーストリアが勝利した。
首都のウィーンは古くから音楽の都として栄え数々の音楽家を輩出し、現在でも世界有数のオーケストラのウィーン・フィルハーモニーがある。
アルプス山脈が国土の62%を占めているため気候は寒冷で雪が多い。
そのためウィンタースポーツが盛んで冬季オリンピックではよくオーストリア国旗が活躍する。
積雪のため、卓球、ハンドボール、アイスホッケー、柔道など室内競技も盛んである。
またアドルフ・ヒトラーの故国でもあり、彼はオーストリア西部のブラウナウで生まれウィーンの美術学校に行こうとしたが落第し街角で絵を描いていた。
そして第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍に志願。
戦後はドイツに住み、政治活動を始め政界で大出世した。
そして1938年、オーストリアに侵攻しドイツに併合した。
アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリアの首都:ウィーンから約200㎞離れた、南東部のシュタイアー州グラーツのはずれにあるタール村はで生まれた。
タールは東にハンガリー、南にユーゴスラビアの国境を接していた。
父親のグスタフは陸軍に入っていたが、ヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された後、ナチス党員となった。
当時、オーストリア国内でナチスに入るのは全体の10%程度だった。
ナチス党員になる条件の中に、非ユダヤ系白人ということがあったが、シュワルツェネッガー家は7代前にチェコスロバキアから移住してきて以来、全員がシュタイアー州出身のアーリア人だった。
ちなみにシュワルツェネッガーという名を直訳すると「黒い耕夫」
ヒトラーがグラーツに凱旋訪問したとき、人々は第3帝国による繁栄を期待し彼を支持し声援を送った。
そしてグスタフはグラーツから6㎞離れたタールの警察署長となった。
仕事人間だったグスタフは38歳で15歳年下の未亡人と結婚した。
兄のマインハルトはかわいがったが、弟のアーノルドには「自分の子ではない」という根拠のない疑いを持っていた。
グフタスは妻を非難し続け家庭は不和に陥った。
グフタスは、
「勇気と苦しみこそ喜びの根源であり、困難と苦痛は耐えながら励むことによって克服でき、勝利はその後に得られるものである」
という元軍人らしい教育を行った。
両脇に本を挟んで食事をさせ姿勢を矯正し、兄弟を勉強やスポーツで競わせた。
そして勝敗が決まると
「お前たちのうちどちらが優秀かいいなさい」
と強いた。
負けた方は罰を与えられるため兄弟は必死に戦った。
グスタフにとって闘争と力と勝利以上に価値のあるものはなかった。
うめき声が出るまでやれ
アーノルドは学校で体の小さな級友を守ったり助けたりする反面、他人をあざけったりいじめることもあった。
葉に棘のあるイラクサで数人の女子のグループを殴ったり、女の子のカバンをひったくり川の中に投げたり、村の道をやってきた牛乳配達夫を何の理由もなく殴りつけたりもした。
兄のマインハルトも道を歩いていた老夫婦に
「祖父が死んで花を贈りたいけどお金がない」
と嘘をついて泣きつき500シリングを奪ったり、いじめが原因で矯正施設に送られたこともあった。
被害者の中には警察に訴える者もいたが、グフタスはなだめたり、息子を信じるといい張って、事件にしなかったし叱ることもなかった。
このためシュワルツェネッガー家は村の一部からは嫌われた。
13歳のアーノルドは元ボディビルダーのスティーヴ・リーヴス主演の映画「ヘラクレス」にハマり、何度も繰り返し観た。
そしてボディビルをやろうと思った。
当時、Mr.オーストリアだったクルト・マーヌルがグラーツにジムを開いていた。
このジムは現在でもトップ選手を輩出している。
アーノルドはタールの水泳のコーチがマーヌルの友人であることを知り、会わせてほしいと頼んだ。
そして2人は出会い、マーヌルは14歳で189㎝もあったアーノルドに自分のジムに来るように告げた。
翌日、アーノルドは学校の後にグラーツのフットボールスタジアム内にあったジムに行った。
粗末なジムで、国土の62%をアルプス山脈が占めている寒冷なオーストリアにあって、床にカーペットも敷かれず、暖房器具もなかった。
壁に空いた穴には紙くずが詰められていたが、風で飛ばされると冷たい風雨が入ってきた。
そんな中で20人ほどがトレーニングしていた。
クルト・マーヌルはアーノルドにトレーニングの基本を教えた。
「トレーニング中は鍛えようとしている筋肉のことだけ考え、苦痛の限界ギリギリまでがんばれ。
うめき声が出るまでやれ。
これが一流のボディビルダーになるコツだ」
食生活について大量の卵を食べること、そしてステロイド剤も競技に勝つために必要であると教えられた。
今日では薬物使用は問題視されているが、当時はステロイドの危険性はよく知られておらず、単なる筋肉増強剤と考えられていた。
クルト・マーヌスは試合3ヵ月前からストロイドを使用し、試合後はやめるということを繰り返していた。
アーノルドはステロイド剤を牛乳と一緒に飲んで、続けてタンパク質の錠剤を一握り口に放り込んで、それを口に含んだまま、
「よし、やるぞ」
といってトレーニングを始めた。
彼は
「糞を1㎏食べたら筋肉がつくというんだったら僕は食べるよ」
とまでいった。
ボディビルと薬物
ボディビル(ボディビルディング、Bodybuilding)は、トレーニング、栄養、休養を組み合わせることによって筋肉を発達させる過程のこと。
それによって心身に様々なポジティブな変化が起き、スポーツやリハビリテーションのために行うウエイトトレーニングもボディビルから枝分かれし発達したものである。
ボディビルを行う人をボディビルダーと呼ぶ。
ボディビルの競技会では、ボディビルダーの肉体を審査員が得点をつける。
その基準は、全体的な形の美しさ、バルク(筋肉量)、カット(皮下脂肪のなさ)、パンプ・アップ(血液が筋に送られて充血した筋肉)である。
ボディビルダーは、まず基本ポーズで審査され、それを通過した者だけが、自分で選曲した音楽で芸術性を込めたポージングするフリーポーズを審査される。
彼らは白い肌より黒い肌の方が筋肉の陰影が出るため褐色のカラーを塗ったり日焼けをする。
首から下の体毛は除毛・剃毛する。
ポージング中にパンツからはみ出さないように陰毛も剃毛する。
ボディビルの起源をたどれば古代ギリシャまでさかのぼる。
近代においては19世紀後半、プロイセン王国のケーニヒスベルク(現:ロシア連邦カリーニングラード)のユージン・サンドーがアメリカのプロデューサーに見出され「世界最強の男」「驚異のサンドー」と銘打たれたショーで、重量挙げや人間や動物を持ち上げ、その腕力を見せつけた。
サンドーは古代ギリシャ・ローマの彫刻を研究し、自分の肉体を鍛錬によってそれに近づけることを目指した。
これによって彫刻などで具現化された肉体の美が想像のものではなく実際の人間の肉体で表されることを証明した。
20世紀に入るとアメリカやイギリスでボディビル大会が開催されるようになる。
1939年には第1回Mr.アメリカ大会が行われた。
カリフォルニア州ベニス市のサンタモニカ桟橋の南にあるベニスビーチは通称:マッスルビーチと呼ばれ、たくさんの人がここに集まり読書や食事、そしてトレーニングを行う。
第2次世界大戦中、マッスルビーチ周辺は海外の戦地に行く兵隊の宿舎だったので、訓練やトレーニングをしていた場所だった。
マッスルコンテストが、マッスルビーチの屋外トレーニングジムの近くで、5月の最終日曜日のメモリアルデー戦没将兵追悼記念日、7月4日の独立記念日、9月第一月曜日のレイバー・デーの年3回開催された。
それは
男子ボディビル部門
女子ボディビル部門
マスターズ(35歳以上)ボディビル部門、
フィジック部門(男)
フィギュア部門(女)
ビキニ部門(女)
に分かれてビーチに似合う体を競うカリフォルニア最大級のアマチュアコンテストである。
1965年、マッスルビーチにゴールドジム第1号店がオープンし、アメリカのフィットネスのメッカとなっていった。
しかしボディビルは偏見にさらされやすいスポーツである。
「脳ミソ空っぽ」
「脳筋」
「露出狂」
「ナルシスト」
「同性愛者が多い」
など今日でも誤解されることが多い。
特に女性がボディビルを行うことについては否定的な意見が多く、逆に女性ボディビルダーの人口が多さとその国の文化レベルは比例するといわれている。
日本においては、石井直方や小山裕史など元トップボディビルダーが、トップスポーツアスリートを含めてスポーツトレーニングを理論的にも実践的にも牽引していることからもボディビルディングというスポーツの実用性の高さを証明している。
ボディビルと薬物とのかかわりは他のスポーツよりも深く1960年代にはその洗礼を受けたといわれる。
その結果、
「ボディビルダーはみんなドーピングしている」
というイメージもある。
実際には薬物を使用するボディビルダーと一切薬物を使用しないナチュラルビルダーがいる。
通常、両者が同じコンテストに出場することはなく各々、専用のコンテストがある。
ボディビルに「健康美」をみたいのか、「怪物」のような肉体をみたいのか、意見が分かれるところである。
伝説のボディビルダーであるセルジオ・オリバは、薬物に否定的だった。
彼は生涯で1度ステロイドを使用し、確かに筋肉を得られたものの
「筋肉がつきすぎる(美しくない)」
という理由で使用をやめた。
熱中
アーノルドは学校が終わるとタールからグラーツ行きのバスに乗り損ねるとヒッチハイクしてジムに通った。
夜遅くなってバスがなくなってもトレーニングを途中でやめることはなく家まで6㎞歩いて帰った。
そのトレーニングは建物が壊れると思うくらい激しかった。
土日はジムは休みだったが、アーノルドが入門後まもなくジムの窓ガラスが割られていることにクルト・マーヌルは気づいた。
アーノルドが週末も練習したさに梯子を借りてきて壁をのぼって窓を割り侵入していた。
クルト・マーヌルは怒ったが、やがてアーノルドの熱意にほだされた。
アーノルドは寒い冬の夜もトレーニングし続け、凍ったシャフトを握っていた手の皮膚がはがれていたこともあった。
トレーニング中は誰が話しかけても応答しないが、ジムのムードメーカーでよく人を笑わせた。
アーノルドは、クルト・マーヌル以外にも、グラーツにいたサミー・アディア・サードやイギリス空軍にいたヘルムート・ナウアなど有名なボディビルダーにも積極的にコンタクトしアドバイスを受けた。
またグラーツの政治家:アルフレッド・ガーストルとも親しくなり彼の所有していたアパートをトレーニング用に提供してもらった。
アルフレッド・ガーストルはユダヤ人だったが、アーノルドは父親がナチス党員であるにも関わらずそのアパートでトレーニングした後、彼の家で食事をした。

自宅以外に楽しみを見つけたアーノルドは教会を離れた。
これは1981年にカトリック教徒であるケネディ家のマリア・シュライバーと結婚するかもしれないというときまで続いた。
アーノルドは精神的にも肉体的にも大きくなっていったが、父親と兄は小さくなっていった。
グスタフは酒に酔ってバスに乗って女性の乗客に迷惑をかける不祥事を起こしラーバ警察へ転勤させられた。
兄のマインハルトは親にいわずに学校を辞めて電子部品メーカに勤め出した。
しかしその後、職を転々とし、借金を重ねた末、グスタフに払ってもらった。
15歳のアーノルドは、ボディビルと将来の夢だけだった。
お金を得るためにグラーツの大工の見習いをはじめた。
月給は1年目は250シリング、2年目は700シリング、3年目は1000シリングだった。
そしてグラーツのシュタイヤーホテルで行われたボディビル大会に初出場し準優勝した。
アルフレッド・ガーストルはボディビルが青少年の非行防止に役立つと政治家仲間に呼びかけた。
またアルフレッド・ガーストルは、後にアーノルドがアメリカで国籍をとるとき、彼のために奔走することになる。
戦車好き
アーノルドはグラーツを出てドイツに行く計画をした。
ドイツのボディビル専門誌「アスレチックスポーツマン」の出版者:ベノ・ダーマンに手紙を書いた。
以前にもボディビルの技術について質問を送り返事をもらったことがあった。
しかし1965年10月1日、18歳のアーノルドはオーストリア陸軍に徴兵され1年間、兵役義務に就いた。
グスタフは息子がグラーツ近郊の駐屯地に配置されるよう、また戦車好きの息子が戦車の操縦ができるように頼み込んだ。
父親のコネでオーストリア陸軍は戦車の操縦資格の年齢を21歳から18歳へ下げた。
アーノルドは戦車の発砲時の反動にスリルを感じ、その威力に感動した。
ブレーキをかけ忘れて1台の戦車を川に突っ込ませたがなにもいわれなかった。
これまで週1回だけしか食べられなかったが軍隊では毎日肉を食べることができ、大量のタンパク質に肉体は反応し筋肉が発達した。
10月30日、ベノ・ダーマンの誘いでドイツのシュトゥットガルトで行われるジュニア・Mr.ヨーロッパ大会に出場し、アーノルドは優勝した。
このときアーノルドはベノ・ダーマンにドイツまでの交通費を出してもらった。
しかしオーストリアの選手たちは車で一緒にシュトゥットガルトまで行った。
なのにベノ・ダーマンが駅まで迎えにいくとアーノルドは駅から出てきたという。
自分が勝つためには手段を選ばない男である。
またアーノルドは、この大会で審査員をしていたブッチガーに出会った。
ドイツのミュンヘンにジムを持ち、「ヘラクレス」「スポーツジャーナル」「スポーツレビュー」の3誌を発行していたブッチガーに
「コーチにならないか」
と誘われたが
「考えさせてくれ」
と答えた。
アーノルドは軍に無断で大会に出ていたためグラーツも戻ると処罰が待っていた。
営倉に拘置され毛布1枚で石の床の上に寝さされて食べ物も十分にもらえなかった。
しかし優勝したことを知ると軍当局の態度は一転した。
食べ物はたらふく食べられ、ボディビルのトレーニングに励んでオーストリアに栄誉をもたらすようにと応援してくれるようになった。
グラーツではアーノルドは英雄扱いを受けた。
しかし18歳にもなってもガールフレンドが1人もいなかった。
父も兄もプレイボーイだったし、グラーツのボディビル仲間はダンスホールやディスコに通っていたがアーノルドはそういう場所に行ったことはなかった。
ボディビルがあればデートなど必要なかった。
俺は危険があるからといってひるまないよ
1966年3月、アーノルドは大きな大会で2度目の優勝を果たし「Mr.ドイツ」のタイトルを手に入れた。
親はプロになることは反対だった。
グラーツで普通の仕事をするか、陸軍に入って軍人になって趣味でボディビルをやればいいと思っていた。
しかしアーノルドは安全、安易、平均、安定を嫌い、危険を冒し挑戦することを好んだ。
「俺は他人と同じようになるのが嫌だった。
人より違った人間になりたかった
リーダーと呼ばれるトップに立つ少数の人間の仲間に入り、その他大勢の1人になりたくなかったんだ。
というのはリーダー格の人間というのは100%の自分の潜在能力を引き出すヤツだからだ」
「強さは勝つことから生まれない。
苦痛を乗り越えてこそ強くなれるのだから。
困難にぶつかっても途中であきらめないこと。
それが強さなんだ」
「とにかくトップになりたいと思わなければならない。
英雄を崇拝するだけで終わらないで俺だってなれると自分に言い聞かすんだ」
「誰にだって潜在能力はある。
その力を出すのは自分に対する誓いなんだ。」
「幸福は偶然やってこない。
どんな夢もなんらかの危険をはらんでいる
特に失敗という危険だ。
だけど俺は危険があるからといってひるまないよ
失敗という危険を冒してもやり直せばいんだから。
永久に失敗するということはない。
10回挑戦したら11回目には勝つ確率は初めての挑戦より高いはずだ」
そしてドイツのミュンヘンのブッチガーのジムで働き出した。
1966年8月1日、アーノルドはミュンヘンのシラー通り36番地にあるブッチガーのジムでトレーニングを開始。
最初はジムでは寝泊まりし、マネージャーやコーチ、そして掃除など雑用の仕事も行った。
そしてトレーニングは1日7時間にも及んだ。
ミュンヘンにきて2ヶ月もたたない9月末、イギリス、ロンドンのビクトリアパレスで行われたMr.ユニバース大会に出場し2位となった。
Mr.ユニバースは世界一のボディビルダーを選出する大会で、1950年にはジェームズ・ボンド・シリーズで有名なショーン・コネリーも出場したことがあった。
アーノルドの巨体に観客は総立ちで2度もアンコールした。
🐩
アーノルドはミュンヘンのボディビル界のリーダーとなり、アパートを借りて楽しく充実した日々を送った。
ジムの外で酒を飲んだとき、突然立ち上がり仁王立ちでシャツを脱いで肉体をみせたり、山盛りの食べ物を平らげた後、隣の客の連れていたプードル犬を指さして
「次はお前を食ってやる」
といって驚かせたりした。
タールにいた頃は女性に関心を示さなかったがミュンヘンではナンパをして風俗店にも通った。
彼は女性は性のはけ口とみていたし、そのアプローチも単刀直入だった。
例えば
「他に何かお望みのものは?」
とウエイトレスに聞かれると
「あるよ。
君とのセックス」
こんなやり方でも女性はすぐに手に入った。
ジムに入会しにやってきた登山家に、
「(2階にあった)ジムの窓から出て地上におりられたら入会を認めよう」
といってその通りにさせたり、舞台でポーズをとるときに大声で叫ぶのがアメリカのボディビルでは最新のテクニックだと教え、その通りに行った選手をみて大笑いした。
ジムにいたアメリカ人に笑顔で近づき、ドイツ滞在に最低限必要なドイツ語で、このことばさえ知っていれば好印象を与えるし友達もできると教えたのは
「コンニチハ、アナタハ、マイニチ、イッショウケンメイ、オナニーシテイマスカ?」
という意味の言葉だった。
アーノルドは、車の運転も乱暴で、交通ルール違反も数知れず、しかも罰金は払わずじまいで風俗店に通った。
最年少優勝 身長189㎝、ウエスト86㎝、胸囲144㎝、上腕56㎝、大腿80㎝、下腿50㎝
1967年のMr.ユニバースに20歳のアーノルドは189㎝、ウエスト86㎝、胸囲144㎝、上腕56㎝、大腿80㎝、下腿50㎝で出場し史上最年少で優勝した。
2ヵ月後、アーノルドは重量挙げの大会に出場するためにグラーツへ帰った。
そしてかつてのジムメイトであるクルト・マーヌルに
「225㎏を挙げたら折れるような脚だな」
アディー・ジーグナーには
「ダメダメ、いい腕してるけど俺にはかなわんだろう」
カール・カインラスには
「カール、おまえはかなり強いと聞いているが俺のレベルにはまだまだだな。
4年もトレーニングしているのにその貧弱な体とはねえ」
といった。
そして大会は、アーノルドのコーチだったヘルムート・セルンシックが優勝。
アーノルドは2位だった。
アメリカへ 1番強いのはだれか見せつけてやる
1968年9月、アーノルドはロンドンのビクトリアパレスでMr.ユニバースの2度目の栄冠をモノにした。
その数日後、アメリカのボディビル界に君臨するウイダー兄弟の要請を受け、スポーツバッグ1つで渡米。
2日後には彼らが主催するMr.ユニバース大会へ出場したが、トレーニング不足で100㎏以上あったアーノルドは30㎏も軽いフランク・ゼーンに敗れた。
その夜は異国の地で1人泣いたが、数日後には誓った。
「アメリカ人からテクニックを学び、同じモノを食って、最後にはアメリカのボディビル界を征服して1番強いのはだれか見せつけてやる」
そしてアメリカに来て数週間後には
「今夜、いっしょに寝たい」
といってレストランのウエイトレスを誘いモノにした。
Weider ウイダー
プロボディビルダー選手の国際的機関であるIFBB(国際ボディビル連盟)の会長を務めるベン・ウイダーとジョー・ウイダーは、アメリカ国内のほとんどのボディビル大会を仕切りし、雑誌を何誌も発行した。
ジョー・ウイダーは13歳のときに「力と健康」という雑誌に出ていた肉体美の写真をみて以来ボディビルに魅せられ、ガラクタ置き場からフライホイールをバーベル代わりに練習を始めた。
2年もたたないうちに体重70㎏で120㎏が挙げられるようになった。
やがてボディビルがマイナーな理由を
「専門誌がないからだ」
と考え「力と健康」のバックナンバーから800人のボディビル愛好家を調べてボディビル専門誌発行の案内書を出した。
そして購読申し込み料の500ドルが送られてくると、新刊「自分の体」を発行。
やがて興行家として、また実業家としてアメリカのボディビル界に君臨するようになった。
彼らは、アメリカでアーノルドに給料を払いながらトレーニングさせ、自身が発行する雑誌にトレーニング方法などを掲載し、国際的なスターに仕立て上げるつもりだった。
アーノルドはウイダー兄弟と契約を結んだ。
トレーニング料と広告への名前と肖像権使用料、出演料として週給が支払われた。
雑誌にはアーノルドのトレーニング記事をゴーストライターが書いた。
アーノルドはカリフォルニア州のサンタモニカにアパートと車を買ってもらい、雑誌や商品を売るのを手伝い、ボディビルの普及に努めた。
Gironda ジロンダ
ジョー・ウイダーはアーノルドをベテランのボディビルダー、そしてトレーナーでもあるビンス・ジロンダのジムに通わせた。
「Mr.ユニバースのアーノルド・シュワルツェネッガーです」
「Mr.ユニバース?
ただのデブじゃないの?」
自己紹介に手痛い返しをするジロンダに、アーノルドは笑顔で握手を求めた。
そして9か月間、この自分の弱点を指摘してくれるトレーナーの下でトレーニングに励んだ。
父は映画スタントマンだったが、ビンス・ジロンダもスタントマンになり500本に及ぶ映画に出演した。
23才のときに初めて、トレーニングに取り組んだ。
1年間後、スタントマンの仕事を辞め自分自身のジムを開く。
2年間、懸命に働いた後、スタジオシティーとユニバーサルシティーを走るベェンチュラ通りにジムを移し現在に至っている。
ジム内には、彼の考案した独特の器具が備えられている。
カーリング・ベンチも、ここで製作された。
18歳のときにトレーニングを始めたジロンダはMr.ユニバースとMr.アメリカで上位を占め、Mr.カリフォルニアのタイトルを獲得した。
そして51歳でMr.ウェスタンのショーに出演し、28インチの腹部、逆三角形の上半身、みごとに発達した大胸筋と三角筋で観衆を魅了した。
Be Here Now
その後、アーノルドはパシフィックアベニューにあるゴールドジムに移りトレーニングした。
そしてここでもまた中心的な人物となった。
ジョークでみんなを笑わせながら、ナンバーワンになるために大きな決意をもってトレーニングに挑んだ。
ジムに入るときの顔は真剣そのもので目は虎の目をしていた。
トレーニングは週6日。
月水金は、午前中は胸と背中、夜は脚をトレーニング。
火木土は胸と腕をトレーニング。
胸のトレーニングではベンチプレスを5セット行い、60㎏から始めて徐々に増やしていく。
途中で挙がらなくなったらバーベルのプレートを外して60㎏に戻して続けた
こうして60㎏が1tに感じるくらいまで続けた。
スクワットは1回のトレーニングで6000㎏以上挙げるため、週に数t挙げることになる。
途中で気を失ったり嘔吐することもあったが、アーノルドは起き上がって続けた。
通常、トレーニングは何セット行うか決めて行うが、アーノルドは
「Be Here Now(いま、ここ)」
だけに集中し納得するまで何セットでも繰り返した。
ハードなトレーニングにより、おそらくたくさんケガもしていただろうがアーノルドは誰にもそれをいわなかった。
彼のトレーニングをみようと多くのトレーニーがジムに集まった。
アーノルドも自分だけでトレーニングしているときより、人の前でのほうが重い重量を挙げることができた。
アーノルドはファンに囲まれてスターとなった。
トレーニングの合間にビーチにいったりハンバーガーショップにいったりした。
ゴールドジムのスタッフがジムの窓ガラスを拭いているときアーノルドは窓の反対側でズボンを下し尻を出してみせた。
ビーチではビキニ姿の女性を目で追い、お気に入りがいれば
「セックスしようよ」
と声をかけた。
弱い人間やすぐに人に頼る人間が嫌いなアーノルドは、
「強くなるにはどうしたらいいか教えてくれ」
というファンに
「わざわざオーストリアから空輸しているスペシャルオイルだ」
といって瓶を取り出しファンの体に塗り、全身に塗り終えポーズをとらせた。
「オイルを洗い流さずそのまま服を着るように、少ししたら筋肉がつくから・・・」
とアドバイスするとファンは油のしみた服を着て喜んで帰っていった。
スペシャルオイルは車のガソリンだった。
また
「どうしたらそんな体になれるのか」
とたずねてくる別のファンには
「俺のような体をつくりたいならクルミの殻をつぶしたものを塩と混ぜて食べればいいんだよ。
1日目はそれをスプーン1杯。
2日目からは1日ごとにスプーン1杯ずつ増やしていって、30日間それを食べるんだ。
だから30日目にはスプーン30杯を食べることになる。
これを続けたら筋肉が発達し俺のような体になるぞ」
とアドバイス。
喜んだそのファンは17日目まで頑張った。
バーバラとオリバ
1969年7月、アーノルドはレストランで働くバーバラ・アウトランドに一目ぼれした。
これまで真剣に女性を愛したことがなかったが、やっとめぐり合った。
バーバラはサンディエゴ大学で英語の教師を目指し学ぶ学生で、アーノルドのことも、ボディビルのタイトル保持者であることも知らなかった。
アーノルドは22歳、バーバラ・アウトランドは20歳、お似合いのカップルだった。
バーバラはアーノルドに英語を教えたり、アーノルドがカレッジに通い出すと宿題を手伝ったりした。
またアーノルドの写真入りでボディビルのトレーニング器具とトレーニング法について書いた冊子を通信販売していたが、バーバラは事務的な手伝いをした。
そしてアーノルドはバーバラの学費を払い、バーバラがアーノルドのアパートに泊まらない日は女遊びに専念した。
1969年はニューヨークで大きな大会が2つ行われた。
アーノルドは、Mr.ユニバース(IFBB)では優勝したが、Mr.オリンピアではセルジオ・オリバに敗れ2位だった。
その後、ロンドンでのMr.ユニバース(NABBA)で優勝、ドイツで行われた大会でも勝ちMr.ヨーロッパとなった。
映画デビュー作品
「SF超人ヘラクレス」という映画(日本ではビデオのみ)にアーノルド・ストロングという芸名で出演。
ゼウスの私生児であるヘラクレス(アーノルド)は、オリンポス山から投げ捨てられニューヨークに降り立つというストーリーだが、アーノルドのセリフは訛(なまり)が強かったので吹き替えられた。
苦いデビュー作である。
じゃ、先に行って
1970年、アーノルドは新しい方法でトレーニングをやり始めた。
これまで5、6時間ぶっ続けで行っていたが、1回1時間、1日2、3回、週4、5日行うという方法に切り替えた。
1970年9月18日、ロンドンのMr.ユニバースで優勝。
1970年9月19日、ロンドンからニューヨークまで12時間かけて移動した後、プロMr.ワールド大会に出場し、セルジオ・オリバに勝って優勝した。
さらに2週間後、10月3日、ニューヨークタウンホールで行われたMr.オリンピアで再びセルジオ・オリバを抑えて優勝。
このとき舞台の上でアーノルドとオリバがポーズをとって競っていたが、2人とも疲れ切っていたので、アーノルドが
「もうこのくらいで舞台を下りないか?」
と聞くとオリバは
「いいよ」
と返した。
アーノルドに
「じゃ、先に行って」
といわれその通りにすると観客はオリバが棄権したと誤解しヤジを飛ばした。
アーノルドは気が変わり舞台に残りMr. オリンピアとなった。
こうして23歳のアーノルドは1970年の1年間でMr.ユニバース、プロMr.ワールド、Mr.オリンピアの3つのタイトルを獲得した。
Mr.オリンピア 連覇開始
1971年、アーノルドはロンドンのMr.ユニバースに出場しようとしたが、国際ボディビル連盟は同連盟主催のロンドンのMr.ユニバースとパリのMr.オリンピアの両方に出場することを問題視したため、アーノルドは後者に出場。
2度目のMr.オリンピアを獲得した。
1972年9月、アーノルドはドイツのエッセンで行われたMr.オリンピア大会で優勝した。
(3度目の優勝)
このときアーノルドは1.5㎏ほど体重をオーバーしていたし、セルジオ・オリバのできがよく強力なライバルになると思われた。
しかし予選をする部屋の壁が黒系の色だった。
するとアーノルドの白い体は浮き立ち、オリバの黒い体は消されてしまうという目の錯覚が起こり、審査員は現実以上にアーノルドを評価したという。
1972年12月11日、エッセンの大会の2ヵ月後、父:グスタフが65歳で心臓発作のために亡くなった。
1週間後、グラーツ郊外の墓地に葬られるとき100人を超す警察官が列席したが、アーノルドはトレーニングのため葬式にも出れずアメリカにいた。
1973年、ニューヨークのフェルトフォーラムで行われたMr.オリンピアで、アーノルドは、22歳、196㎝、120㎏、2度Mr.ユニバースのタイトルを獲得していた大型新人:ルー・フェリグノを下して4度目の優勝を果たした。
アメリカはジョギングブームからボディビルの時代が到来しつつあり一般誌もボディビルの特集を組んだ。
アーノルドは何度もテレビに出演しボディビルにイメージを変えた。
「ボディビルは愉快なスポーツ。
腕でラクダのこぶがつくれるスポーツ」
というアーノルドをみて視聴者は笑ってしまった。「1970年代の半ば、僕はボディビルの普及に努めて前よりなじみやすいものにしたと思いますよ。
昔はボディビルをする者は1日に肉を1㎏、卵を30個食べ、12時間眠り、セックスなんかできなかった、といわれていました。
それだったら誰もボディビルに興味を持たない。
まず昔にいわれていたことは間違っていますし、あるスポーツを普及しようと思ったらそれが楽しいものであると知らしめるべきですよね。
これはスポーツに限ったことではないですがね。
食生活についても、僕はケーキやアイスクリームも食べたし、夜遅くまで起きていたし、セックスもしたし、してはいけないといわれていたことを全部しました。
ボディビルに必要なのは、週3回、45分から1時間のトレーニングだけなんです。
それでバッチリですよ」
またアーノルドは映画「ロング・グッドバイ」に出演。
ギャングの手下役でセリフはなくケンカ腰で立っている役だった。
1974年、ニューヨークでで行われたMr.オリンピアで優勝。
5度目の優勝。
まさに無敵、最強の男だった。
ジョー・ウイダーの発行する雑誌で、アーノルドが表紙を飾り、中身も記事や商品の宣伝でアーノルドの写真であふれ、アーノルドのようになりたい読者の心を煽った。
「チャンピオンに聞いてみよう」という読者からの質問にアーノルドが答えるコーナーでは、
「個人的に話してみる必要がある」
と返事をし定員35名の公開講座の参加を呼びかけている。
費用は数千ドルだった。
アメリカ国内で行われるボディビル大会にアーノルドはゲスト出演すると入場料5ドルの会場に数千人が入った。
そして父親がナチスだったのに「栄光への脱出」のテーマ曲が流れ、アーノルドコール起こる中、ボディビル界史上最高、最強の男が現れポーズをとった。
女性は熱狂し、男性は羨望のまなざしを向けた。
Mr.オリンピア 6連覇 電撃引退
1975年4月、アーノルドはアラバマ州バーミンガムで映画「青春の選択(Stay Hungry)」のセット撮影に入った。
アーノルドが演じるジョー・サントは、Mr.オーストラリアのタイトルを持つボディビル選手。
大会出場のためバーミンガムに来ていた彼は地元のジム経営者で魅力的なサリー・フィールドが演じるメアリ・テイトを好きになる。またジェフ・ブリッジズ演ずる南部の地主とも知り合う。
3人は三角関係になってしまうというストーリー。
撮影に入る前に、これまでアーノルド・ストロングという芸名をやめて本名:アーノルド・シュワルツェネッガーを使った。
難しいから-と反対する者もいたが、覚えさせる自信があった。
そして大スターになることを目標にエルビス・プレスリーやモハメド・アリを研究した。
以前からアーノルドに結婚を迫り、また「青春の選択」への出演に反対だったバーバラ・アウトランドは、ついに別れる決心をした。
「アーノルドは目標達成しか頭にないんです。
目標を決めるとその達成に役だつことしかしないんです」
現在、バーバラ・アウトランドはロスアンゼルスのリンカーン高校で英語の教師をしている。
そして「正しい読書の方法」という本も出版している。
1975年6月、映画「Pumping Iron(鋼鉄の男)」の撮影が開始。
この映画は、アーノルド・シュワルツェネッガーを中心に当時のボディービルダーを取り上げたドキュメンタリー映画。
1975年6月から11月にわたって撮影され、クライマックスは1975年11月8日にに南アフリカのプレトリアで行われたMr.オリンピア大会である。
アーノルド・シュワルツェネッガーやルー・フェリグノ、フランコ・コロンボといった選手たちを追い、個々の私生活やバックボーンにも触れつつ、どのようなトレーニングをしているのか、プロのボディービルダーとはどのようなものなのかを記録しつつ、大会に向けて己を磨く選手たちを撮影した。
1975年のMr.オリンピアははじめて南アフリカで行われた。
人種隔離政策を行っている国で人種差別を非難していたIFBB(国際ボディビル連盟)主催の大会が行われることにみんな驚いたが、アーノルドがこの国のスポーツ大臣の息子と友人だった関係から実現した。
スポーツ大臣:ピエット・クールホフは全参加選手は人種を問わず仲間として平等に扱われることをウイダー兄弟に約束した。
参加選手は南アフリカ航空のファーストクラスで南アフリカに降り立ち5ツ星のホテルに泊まった。
費用は南アフリカ政府が負担した。
しかし大会2日目に白人選手と一緒に公園で日光浴をしていた黒人選手のロビー・ロビンソンは警察官に引きずり出された。
この警官は人種隔離政策が一時的に中止されていることを知らなかった。
大会では、アーノルドが優勝し、6度目のMr.オリンピアとなった。
そして28歳のアーノルドはボディビルをすることによっていろいろな経験ができたことを感謝し、今後も続けていくことを語ったが、大会出場からは退くことを発表した。
突然の引退表明だった。