チ、チン、V V
オーストリアの黒い耕夫
アーノルド・シュワルツェネッガーの生まれた国、オーストリアの正式名称は「オーストリア共和国(ドイツ語:Republik Österreich、英語:Remde222_prd.of Austria)」
中欧(中央ヨーロッパ)に位置し、人口は約830万人。
首都はウィーン。
国土をドナウ川が東西を横切って流れ、ドナウ川の西はドイツ、東はハンガリーにつながっている。
オーストリアは過去に3回、異なる民族、異なる宗教、異なる思想と対峙した。
1回目はローマ帝国、2回目はオスマン帝国、3回目は共産圏である。
2回目と3回目は最後にはオーストリアが勝利した。
首都のウィーンは古くから音楽の都として栄え数々の音楽家を輩出し、現在でも世界有数のオーケストラのウィーン・フィルハーモニーがある。
アルプス山脈が国土の62%を占めているため気候は寒冷で雪が多い。
そのためウィンタースポーツが盛んで冬季オリンピックではよくオーストリア国旗が活躍する。
積雪のため、卓球、ハンドボール、アイスホッケー、柔道など室内競技も盛んである。
またアドルフ・ヒトラーの故国でもあり、彼はオーストリア西部のブラウナウで生まれウィーンの美術学校に行こうとしたが落第し街角で絵を描いていた。
そして第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍に志願。
戦後はドイツに住み、政治活動を始め政界で大出世した。
そして1938年、オーストリアに侵攻しドイツに併合した。
アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリアの首都:ウィーンから約200㎞離れた、南東部のシュタイアー州グラーツのはずれにあるタール村はで生まれた。
タールは東にハンガリー、南にユーゴスラビアの国境を接していた。
父親のグスタフは陸軍に入っていたが、ヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された後、ナチス党員となった。
当時、オーストリア国内でナチスに入るのは全体の10%程度だった。
ナチス党員になる条件の中に、非ユダヤ系白人ということがあったが、シュワルツェネッガー家は7代前にチェコスロバキアから移住してきて以来、全員がシュタイアー州出身のアーリア人だった。
ちなみにシュワルツェネッガーという名を直訳すると「黒い耕夫」
ヒトラーがグラーツに凱旋訪問したとき、人々は第3帝国による繁栄を期待し彼を支持し声援を送った。
そしてグスタフはグラーツから6㎞離れたタールの警察署長となった。
仕事人間だったグスタフは38歳で15歳年下の未亡人と結婚した。
兄のマインハルトはかわいがったが、弟のアーノルドには「自分の子ではない」という根拠のない疑いを持っていた。
グフタスは妻を非難し続け家庭は不和に陥った。
グフタスは、
「勇気と苦しみこそ喜びの根源であり、困難と苦痛は耐えながら励むことによって克服でき、勝利はその後に得られるものである」
という元軍人らしい教育を行った。
両脇に本を挟んで食事をさせ姿勢を矯正し、兄弟を勉強やスポーツで競わせた。
そして勝敗が決まると
「お前たちのうちどちらが優秀かいいなさい」
と強いた。
負けた方は罰を与えられるため兄弟は必死に戦った。
グスタフにとって闘争と力と勝利以上に価値のあるものはなかった。
うめき声が出るまでやれ
アーノルドは学校で体の小さな級友を守ったり助けたりする反面、他人をあざけったりいじめることもあった。
葉に棘のあるイラクサで数人の女子のグループを殴ったり、女の子のカバンをひったくり川の中に投げたり、村の道をやってきた牛乳配達夫を何の理由もなく殴りつけたりもした。
兄のマインハルトも道を歩いていた老夫婦に
「祖父が死んで花を贈りたいけどお金がない」
と嘘をついて泣きつき500シリングを奪ったり、いじめが原因で矯正施設に送られたこともあった。
被害者の中には警察に訴える者もいたが、グフタスはなだめたり、息子を信じるといい張って、事件にしなかったし叱ることもなかった。
このためシュワルツェネッガー家は村の一部からは嫌われた。
13歳のアーノルドは元ボディビルダーのスティーヴ・リーヴス主演の映画「ヘラクレス」にハマり、何度も繰り返し観た。
そしてボディビルをやろうと思った。
当時、Mr.オーストリアだったクルト・マーヌルがグラーツにジムを開いていた。
このジムは現在でもトップ選手を輩出している。
アーノルドはタールの水泳のコーチがマーヌルの友人であることを知り、会わせてほしいと頼んだ。
そして2人は出会い、マーヌルは14歳で189㎝もあったアーノルドに自分のジムに来るように告げた。
翌日、アーノルドは学校の後にグラーツのフットボールスタジアム内にあったジムに行った。
粗末なジムで、国土の62%をアルプス山脈が占めている寒冷なオーストリアにあって、床にカーペットも敷かれず、暖房器具もなかった。
壁に空いた穴には紙くずが詰められていたが、風で飛ばされると冷たい風雨が入ってきた。
そんな中で20人ほどがトレーニングしていた。
クルト・マーヌルはアーノルドにトレーニングの基本を教えた。
「トレーニング中は鍛えようとしている筋肉のことだけ考え、苦痛の限界ギリギリまでがんばれ。
うめき声が出るまでやれ。
これが一流のボディビルダーになるコツだ」
食生活について大量の卵を食べること、そしてステロイド剤も競技に勝つために必要であると教えられた。
今日では薬物使用は問題視されているが、当時はステロイドの危険性はよく知られておらず、単なる筋肉増強剤と考えられていた。
クルト・マーヌスは試合3ヵ月前からストロイドを使用し、試合後はやめるということを繰り返していた。
アーノルドはステロイド剤を牛乳と一緒に飲んで、続けてタンパク質の錠剤を一握り口に放り込んで、それを口に含んだまま、
「よし、やるぞ」
といってトレーニングを始めた。
彼は
「糞を1㎏食べたら筋肉がつくというんだったら僕は食べるよ」
とまでいった。
ボディビルと薬物
ボディビル(ボディビルディング、Bodybuilding)は、トレーニング、栄養、休養を組み合わせることによって筋肉を発達させる過程のこと。
それによって心身に様々なポジティブな変化が起き、スポーツやリハビリテーションのために行うウエイトトレーニングもボディビルから枝分かれし発達したものである。
ボディビルを行う人をボディビルダーと呼ぶ。
ボディビルの競技会では、ボディビルダーの肉体を審査員が得点をつける。
その基準は、全体的な形の美しさ、バルク(筋肉量)、カット(皮下脂肪のなさ)、パンプ・アップ(血液が筋に送られて充血した筋肉)である。
ボディビルダーは、まず基本ポーズで審査され、それを通過した者だけが、自分で選曲した音楽で芸術性を込めたポージングするフリーポーズを審査される。
彼らは白い肌より黒い肌の方が筋肉の陰影が出るため褐色のカラーを塗ったり日焼けをする。
首から下の体毛は除毛・剃毛する。
ポージング中にパンツからはみ出さないように陰毛も剃毛する。
ボディビルの起源をたどれば古代ギリシャまでさかのぼる。
近代においては19世紀後半、プロイセン王国のケーニヒスベルク(現:ロシア連邦カリーニングラード)のユージン・サンドーがアメリカのプロデューサーに見出され「世界最強の男」「驚異のサンドー」と銘打たれたショーで、重量挙げや人間や動物を持ち上げ、その腕力を見せつけた。
サンドーは古代ギリシャ・ローマの彫刻を研究し、自分の肉体を鍛錬によってそれに近づけることを目指した。
これによって彫刻などで具現化された肉体の美が想像のものではなく実際の人間の肉体で表されることを証明した。
20世紀に入るとアメリカやイギリスでボディビル大会が開催されるようになる。
1939年には第1回Mr.アメリカ大会が行われた。
カリフォルニア州ベニス市のサンタモニカ桟橋の南にあるベニスビーチは通称:マッスルビーチと呼ばれ、たくさんの人がここに集まり読書や食事、そしてトレーニングを行う。
第2次世界大戦中、マッスルビーチ周辺は海外の戦地に行く兵隊の宿舎だったので、訓練やトレーニングをしていた場所だった。
マッスルコンテストが、マッスルビーチの屋外トレーニングジムの近くで、5月の最終日曜日のメモリアルデー戦没将兵追悼記念日、7月4日の独立記念日、9月第一月曜日のレイバー・デーの年3回開催された。
それは
男子ボディビル部門
女子ボディビル部門
マスターズ(35歳以上)ボディビル部門、
フィジック部門(男)
フィギュア部門(女)
ビキニ部門(女)
に分かれてビーチに似合う体を競うカリフォルニア最大級のアマチュアコンテストである。
1965年、マッスルビーチにゴールドジム第1号店がオープンし、アメリカのフィットネスのメッカとなっていった。
しかしボディビルは偏見にさらされやすいスポーツである。
「脳ミソ空っぽ」
「脳筋」
「露出狂」
「ナルシスト」
「同性愛者が多い」
など今日でも誤解されることが多い。
特に女性がボディビルを行うことについては否定的な意見が多く、逆に女性ボディビルダーの人口が多さとその国の文化レベルは比例するといわれている。
日本においては、石井直方や小山裕史など元トップボディビルダーが、トップスポーツアスリートを含めてスポーツトレーニングを理論的にも実践的にも牽引していることからもボディビルディングというスポーツの実用性の高さを証明している。
ボディビルと薬物とのかかわりは他のスポーツよりも深く1960年代にはその洗礼を受けたといわれる。
その結果、
「ボディビルダーはみんなドーピングしている」
というイメージもある。
実際には薬物を使用するボディビルダーと一切薬物を使用しないナチュラルビルダーがいる。
通常、両者が同じコンテストに出場することはなく各々、専用のコンテストがある。
ボディビルに「健康美」をみたいのか、「怪物」のような肉体をみたいのか、意見が分かれるところである。
伝説のボディビルダーであるセルジオ・オリバは、薬物に否定的だった。
彼は生涯で1度ステロイドを使用し、確かに筋肉を得られたものの
「筋肉がつきすぎる(美しくない)」
という理由で使用をやめた。
熱中
アーノルドは学校が終わるとタールからグラーツ行きのバスに乗り損ねるとヒッチハイクしてジムに通った。
夜遅くなってバスがなくなってもトレーニングを途中でやめることはなく家まで6㎞歩いて帰った。
そのトレーニングは建物が壊れると思うくらい激しかった。
土日はジムは休みだったが、アーノルドが入門後まもなくジムの窓ガラスが割られていることにクルト・マーヌルは気づいた。
アーノルドが週末も練習したさに梯子を借りてきて壁をのぼって窓を割り侵入していた。
クルト・マーヌルは怒ったが、やがてアーノルドの熱意にほだされた。
アーノルドは寒い冬の夜もトレーニングし続け、凍ったシャフトを握っていた手の皮膚がはがれていたこともあった。
トレーニング中は誰が話しかけても応答しないが、ジムのムードメーカーでよく人を笑わせた。
アーノルドは、クルト・マーヌル以外にも、グラーツにいたサミー・アディア・サードやイギリス空軍にいたヘルムート・ナウアなど有名なボディビルダーにも積極的にコンタクトしアドバイスを受けた。
またグラーツの政治家:アルフレッド・ガーストルとも親しくなり彼の所有していたアパートをトレーニング用に提供してもらった。
アルフレッド・ガーストルはユダヤ人だったが、アーノルドは父親がナチス党員であるにも関わらずそのアパートでトレーニングした後、彼の家で食事をした。
自宅以外に楽しみを見つけたアーノルドは教会を離れた。
これは1981年にカトリック教徒であるケネディ家のマリア・シュライバーと結婚するかもしれないというときまで続いた。
アーノルドは精神的にも肉体的にも大きくなっていったが、父親と兄は小さくなっていった。
グスタフは酒に酔ってバスに乗って女性の乗客に迷惑をかける不祥事を起こしラーバ警察へ転勤させられた。
兄のマインハルトは親にいわずに学校を辞めて電子部品メーカに勤め出した。
しかしその後、職を転々とし、借金を重ねた末、グスタフに払ってもらった。
15歳のアーノルドは、ボディビルと将来の夢だけだった。
お金を得るためにグラーツの大工の見習いをはじめた。
月給は1年目は250シリング、2年目は700シリング、3年目は1000シリングだった。
そしてグラーツのシュタイヤーホテルで行われたボディビル大会に初出場し準優勝した。
アルフレッド・ガーストルはボディビルが青少年の非行防止に役立つと政治家仲間に呼びかけた。
またアルフレッド・ガーストルは、後にアーノルドがアメリカで国籍をとるとき、彼のために奔走することになる。
戦車好き
アーノルドはグラーツを出てドイツに行く計画をした。
ドイツのボディビル専門誌「アスレチックスポーツマン」の出版者:ベノ・ダーマンに手紙を書いた。
以前にもボディビルの技術について質問を送り返事をもらったことがあった。
しかし1965年10月1日、18歳のアーノルドはオーストリア陸軍に徴兵され1年間、兵役義務に就いた。
グスタフは息子がグラーツ近郊の駐屯地に配置されるよう、また戦車好きの息子が戦車の操縦ができるように頼み込んだ。
父親のコネでオーストリア陸軍は戦車の操縦資格の年齢を21歳から18歳へ下げた。
アーノルドは戦車の発砲時の反動にスリルを感じ、その威力に感動した。
ブレーキをかけ忘れて1台の戦車を川に突っ込ませたがなにもいわれなかった。
これまで週1回だけしか食べられなかったが軍隊では毎日肉を食べることができ、大量のタンパク質に肉体は反応し筋肉が発達した。
10月30日、ベノ・ダーマンの誘いでドイツのシュトゥットガルトで行われるジュニア・Mr.ヨーロッパ大会に出場し、アーノルドは優勝した。
このときアーノルドはベノ・ダーマンにドイツまでの交通費を出してもらった。
しかしオーストリアの選手たちは車で一緒にシュトゥットガルトまで行った。
なのにベノ・ダーマンが駅まで迎えにいくとアーノルドは駅から出てきたという。
自分が勝つためには手段を選ばない男である。
またアーノルドは、この大会で審査員をしていたブッチガーに出会った。
ドイツのミュンヘンにジムを持ち、「ヘラクレス」「スポーツジャーナル」「スポーツレビュー」の3誌を発行していたブッチガーに
「コーチにならないか」
と誘われたが
「考えさせてくれ」
と答えた。
アーノルドは軍に無断で大会に出ていたためグラーツも戻ると処罰が待っていた。
営倉に拘置され毛布1枚で石の床の上に寝さされて食べ物も十分にもらえなかった。
しかし優勝したことを知ると軍当局の態度は一転した。
食べ物はたらふく食べられ、ボディビルのトレーニングに励んでオーストリアに栄誉をもたらすようにと応援してくれるようになった。
グラーツではアーノルドは英雄扱いを受けた。
しかし18歳にもなってもガールフレンドが1人もいなかった。
父も兄もプレイボーイだったし、グラーツのボディビル仲間はダンスホールやディスコに通っていたがアーノルドはそういう場所に行ったことはなかった。
ボディビルがあればデートなど必要なかった。
俺は危険があるからといってひるまないよ
1966年3月、アーノルドは大きな大会で2度目の優勝を果たし「Mr.ドイツ」のタイトルを手に入れた。
親はプロになることは反対だった。
グラーツで普通の仕事をするか、陸軍に入って軍人になって趣味でボディビルをやればいいと思っていた。
しかしアーノルドは安全、安易、平均、安定を嫌い、危険を冒し挑戦することを好んだ。
「俺は他人と同じようになるのが嫌だった。
人より違った人間になりたかった
リーダーと呼ばれるトップに立つ少数の人間の仲間に入り、その他大勢の1人になりたくなかったんだ。
というのはリーダー格の人間というのは100%の自分の潜在能力を引き出すヤツだからだ」
「強さは勝つことから生まれない。
苦痛を乗り越えてこそ強くなれるのだから。
困難にぶつかっても途中であきらめないこと。
それが強さなんだ」
「とにかくトップになりたいと思わなければならない。
英雄を崇拝するだけで終わらないで俺だってなれると自分に言い聞かすんだ」
「誰にだって潜在能力はある。
その力を出すのは自分に対する誓いなんだ。」
「幸福は偶然やってこない。
どんな夢もなんらかの危険をはらんでいる
特に失敗という危険だ。
だけど俺は危険があるからといってひるまないよ
失敗という危険を冒してもやり直せばいんだから。
永久に失敗するということはない。
10回挑戦したら11回目には勝つ確率は初めての挑戦より高いはずだ」
そしてドイツのミュンヘンのブッチガーのジムで働き出した。
1966年8月1日、アーノルドはミュンヘンのシラー通り36番地にあるブッチガーのジムでトレーニングを開始。
最初はジムでは寝泊まりし、マネージャーやコーチ、そして掃除など雑用の仕事も行った。
そしてトレーニングは1日7時間にも及んだ。
ミュンヘンにきて2ヶ月もたたない9月末、イギリス、ロンドンのビクトリアパレスで行われたMr.ユニバース大会に出場し2位となった。
Mr.ユニバースは世界一のボディビルダーを選出する大会で、1950年にはジェームズ・ボンド・シリーズで有名なショーン・コネリーも出場したことがあった。
アーノルドの巨体に観客は総立ちで2度もアンコールした。
🐩
アーノルドはミュンヘンのボディビル界のリーダーとなり、アパートを借りて楽しく充実した日々を送った。
ジムの外で酒を飲んだとき、突然立ち上がり仁王立ちでシャツを脱いで肉体をみせたり、山盛りの食べ物を平らげた後、隣の客の連れていたプードル犬を指さして
「次はお前を食ってやる」
といって驚かせたりした。
タールにいた頃は女性に関心を示さなかったがミュンヘンではナンパをして風俗店にも通った。
彼は女性は性のはけ口とみていたし、そのアプローチも単刀直入だった。
例えば
「他に何かお望みのものは?」
とウエイトレスに聞かれると
「あるよ。
君とのセックス」
こんなやり方でも女性はすぐに手に入った。
ジムに入会しにやってきた登山家に、
「(2階にあった)ジムの窓から出て地上におりられたら入会を認めよう」
といってその通りにさせたり、舞台でポーズをとるときに大声で叫ぶのがアメリカのボディビルでは最新のテクニックだと教え、その通りに行った選手をみて大笑いした。
ジムにいたアメリカ人に笑顔で近づき、ドイツ滞在に最低限必要なドイツ語で、このことばさえ知っていれば好印象を与えるし友達もできると教えたのは
「コンニチハ、アナタハ、マイニチ、イッショウケンメイ、オナニーシテイマスカ?」
という意味の言葉だった。
アーノルドは、車の運転も乱暴で、交通ルール違反も数知れず、しかも罰金は払わずじまいで風俗店に通った。
最年少優勝 身長189㎝、ウエスト86㎝、胸囲144㎝、上腕56㎝、大腿80㎝、下腿50㎝
1967年のMr.ユニバースに20歳のアーノルドは189㎝、ウエスト86㎝、胸囲144㎝、上腕56㎝、大腿80㎝、下腿50㎝で出場し史上最年少で優勝した。
2ヵ月後、アーノルドは重量挙げの大会に出場するためにグラーツへ帰った。
そしてかつてのジムメイトであるクルト・マーヌルに
「225㎏を挙げたら折れるような脚だな」
アディー・ジーグナーには
「ダメダメ、いい腕してるけど俺にはかなわんだろう」
カール・カインラスには
「カール、おまえはかなり強いと聞いているが俺のレベルにはまだまだだな。
4年もトレーニングしているのにその貧弱な体とはねえ」
といった。
そして大会は、アーノルドのコーチだったヘルムート・セルンシックが優勝。
アーノルドは2位だった。
アメリカへ 1番強いのはだれか見せつけてやる
1968年9月、アーノルドはロンドンのビクトリアパレスでMr.ユニバースの2度目の栄冠をモノにした。
その数日後、アメリカのボディビル界に君臨するウイダー兄弟の要請を受け、スポーツバッグ1つで渡米。
2日後には彼らが主催するMr.ユニバース大会へ出場したが、トレーニング不足で100㎏以上あったアーノルドは30㎏も軽いフランク・ゼーンに敗れた。
その夜は異国の地で1人泣いたが、数日後には誓った。
「アメリカ人からテクニックを学び、同じモノを食って、最後にはアメリカのボディビル界を征服して1番強いのはだれか見せつけてやる」
そしてアメリカに来て数週間後には
「今夜、いっしょに寝たい」
といってレストランのウエイトレスを誘いモノにした。