
ジェリー・ルイス(Jerry Lewis)
ユダヤ系の両親が芸人で5歳から舞台に立っていた!!
芸人だったユダヤ移民の両親と共に5歳から舞台に立つ。しかし家庭は貧しく、高校はスーパーや帽子工場で働きながら卒業。学生劇などに出演しているうちに芸人を志すようになる。ナイトクラブを経て’46年からアトランティック・シティーのショーに出演し始める。

1950/ ディーン・マーティン (33才頃)/ジェリー・ルイス(24才頃)
コンビとなった相方ディーン・マーティンってどんな人??

ディーン・マーティン(Dean Martin)
その後は『底抜け』シリーズでマネー・ランキングにも顔を出すほどの人気コンビとなって大活躍を続けた。’56年の「底抜けコンビのるかそるか」でコンビを解消。その後正統派俳優の道を周囲の反対をよそに歩き始め、「走り来る人々」や「果てしなき夢」、そして「リオ・ブラボー」と予想に反した演技力を発揮して成功を納めた。’60年代はいわゆる“シナトラ一家”の一員として持ち前のおしゃれな雰囲気を醸し出して多くの作品でファンを魅了。’66年からは『サイレンサー』シリーズでも軽妙な演技で好評を得た。一方“酔いどれディノ”の愛称で歌手としても活躍。『思い出はかくの如く』や『誰かが誰かを愛してる』などのヒット曲も生み出し、’65年からは自身のTVショーも持っていた。’95年に呼吸器疾患のため死亡。
映画『底抜け』シリーズは全部で30作以上!!
映画『底抜け』シリーズを次々にヒットさせたコメディアンと歌手のコンビは、きっちり10年目にコンビを解消してしまう。まだ契約期間が残っていた映画会社に、高額な違約金を支払ってまでふたりが離れた理由については諸説があるが、仕事全般を仕切るジェリーの強要に嫌気がさしたディーンがソロ歌手として独立しようとしたため、「裏切られた」と感じたジェリーが幕引きしたという説がもっとも有力である。頑固なふたりは、コンビ解散後は20年間も口を聞かないままだったという。
『底抜け大学教授』(そこぬけだいがくきょうじゅ 原題:The Nutty Professor)は、1963年にロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』をモチーフに、ジェリー・ルイスが映画化。ルイスは監督、脚本、主演と1人3役をこなしている。
ジュリアス・ケルプ教授(ジェリー・ルイス)は化学の虫で、頭はいいが、運動はからっきしダメな男である。学生たちからバカにされるのを気の毒に思った女子学生のステラの勧めでボディビルを始めるが、効果は出ない。そこで今度は生物学教室の文献を読みあさり、あるクスリを発明して飲んでみると、たちまちたくましい男に変容した。変容したケルプはスポーツやダンスを難なくこなして、“バディ・ラブ”と呼ばれ、一躍学生たちのヒーローとなる。だが、クスリの効目が切れると、たちまち元の弱虫のケルプ教授に逆戻りしてしまう事から、昼はケルプ教授、夜はバディ・ラブという生活が続く事になってしまうドタバタコメディーである。
『底抜け大学教授』は’96年にリメイク!!
”ドタバタ”→”シリアス”!!
彼の出演した映画は、圧倒的に”ドタバタ”のコメディーが多いが、'80年代初期からはコメディーでも、風刺物やシリアスな物まで演じるようになった。代表的な物に「キング・オブ・コメディ」がある。
日テレの24時間テレビ 「愛は地球を救う」 のモデルにもなった番組を創設!!

アメリカ合衆国の筋ジストロフィー協会は、1950年代からチャリティー活動を開始しているが、その活動を広く理解してもらうために、1966年よりコメディアン・俳優であるジェリー・ルイスが発起人・総合司会を担当し、「ジェリー・ルイスのレイバー・デイ・テレソン」(別名「MDAテレソン」)として開催するようになった。
筋ジストロフィー患者の社会参加・治療費の捻出などを目的としたこのイベントは、2010年までは労働者の日の前日夜〜当日夜にかけての概ね20時間以上に亘りラスベガスで開催され、アメリカを代表する著名人・芸能人が、車代なし報酬なしのボランティアで多数出演し、音楽コンサートやミュージカル・トークなどのショーを展開してきた。
番組終了前の最終募金金額発表の際に、紙吹雪が舞い降り、最後に『You'll Never Walk Alone』を歌うのが恒例となっていた。
何だかどこかで散々見たテレビの一場面のような・・・?? でも・・・マラソンはなかったな!!