大仁田厚
邪道プロレス、涙のカリスマといえば大仁田厚でした
大仁田厚は「涙のカリスマ」
プロレスラー大仁田厚
全日本プロレス「新弟子第一号」
ジャイアント馬場に愛された
1981年に海外修業に出発、プエルトリコにてマサ・フチこと渕正信と合流後にアメリカ本土に乗り込み、ミスター・オーニタ(Mr. Onita)のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。
トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、渕とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争った。
遠征中の1982年3月7日、ノースカロライナ州シャーロットにて、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権に挑戦、セコンドに付いたテリー・ファンクの目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた。王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、サングレ・チカナに王座を奪われるものの、すぐに奪回し帰国。
全日ジュニアで「炎の稲妻」と呼ばれる活躍ぶり
ジュニア戦線で活躍するも怪我の後は低迷
佐山タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから炎の稲妻と呼ばれ人気を博し、馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎に続く全日第4の男として注目される。
1983年4月20日、東京体育館でのヘクター・ゲレロとの試合終了後、リングを飛び降りる着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場。
一度は復帰するも、ウルトラセブン、マイティ井上、渕正信、マジック・ドラゴンらの台頭によるジュニア戦線の充実についていけず、馬場夫妻の勧告により1984年12月2日引退を賭けてマイティ井上と闘うも敗れ、翌1985年1月3日に後楽園ホールで引退式。
「邪道プロレス」へ
全財産5万円でFMW設立
1990年8月4日に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も川崎球場や西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」、「デスマッチの教祖」と異名を取る一方、1991年には日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にも取り上げられ知名度を上げる。
また、ザ・シークやタイガー・ジェット・シン、テリー・ファンクら往年の名選手を招聘し、幾多の抗争を展開。
「邪道プロレス」を突き進む大仁田厚
涙のカリスマ、身体の傷は1000針を突破
新日本プロレスとの交流戦
フリーレスラーとして転戦
新日本プロレスのトップレスラーと電流爆破