The Power of Dreams
夢の力、と訳して良いだろう。
トヨタ、日産、マツダをはじめとして自動車メーカーには理念や個性といったものがつきものである。
ホンダの場合、そういったものを一言で現わすならば《夢》になるのだろう。
もっともホンダを《自動車メーカー》としてくくるかどうかは人によって印象が異なっているだろう。
ホンダは自動車メーカーとしては売上日本3位、一方でバイク、すなわち《二輪車メーカー》としては3位カワサキ、2位ヤマハを大きく離しての日本首位。平成27年から28年までの成績である。
今回は《ホンダ》こと本田技研工業の創設者、本田宗一郎について紹介しよう。
本田宗一郎の幼少期
本田宗一郎は1906年、静岡県の生まれである。
1906年というのがまずすごい。年号に直すと明治39年。
第一次西園寺内閣が成立し日本社会党が結成され、伊藤博文、新渡戸稲造、マハトマ・ガンディー、夏目漱石、島崎藤村といった歴史上の人物たちが現役だった時代である。
身近な題材で言うと夏目漱石「坊っちゃん」と本田宗一郎は同年、ということになる。
特筆――というわけでもないが、教科書にたまに顔をだす小説家坂口安吾も1906年の生まれである。
他にも鈴木真砂女という俳人がいるのだが、これはよほど俳句か文学に親しんでいる人でないとぱっとはしないだろう。

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鍛冶屋の長男として生まれた本田宗一郎は1913年に尋常小学校に入学。
自動車を見に行ったり飛行機を見に行ったりしていたようであるが、当時の本田の心を強く打ったのはアート・スミスによる曲芸飛行だったようだ。
その後、無事に高等小学校を卒業し現在のアート金属工業に入社。
入社と言っても、こちらも大正時代のことである。
つまるところが丁稚奉公のような扱いで、しばらくの間、仕事と言えば社長の子供のお守りをすることばかりだったという。
独立
最初に本田が店を構えたのが1928年のことである。年号にすると昭和3年。
店を構えたと言っても《ホンダ》が立ち上がったわけではない。丁稚奉公から修行をすること6年、アート商会(アート金属工業の当時の名前)の支店をたてるかたちで独立することを許された――といった具合である。
奉公明けからの独立はよくある流れだが、この、いわゆる暖簾分けを社長から許されたのは当時本田宗一郎ひとりだけだったという。

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この頃、後の本田宗一郎を形作っているであろういくつかのポイントが発生している。
まずは《結婚》である。
平成も30年を迎え、学術的にも生活的にも現代性というものが煮詰まってきている昨今、《結婚》について頭を悩ませる人は数多くいる。
これは重大な問題なのだが、当時の結婚というのがいかなるものだったのか、そして本田宗一郎たちにとって結婚というのがいかなる問題だったのか、ざんねんながら手元に資料が無い。
ひとつ想像できることがあるにはある。
当時は食器洗浄機も無ければ全自動洗濯機も無いだろう。家事が著しく大変で、結婚をするとうことはこのあたりの家事に、ひいては生活全般に影響を与ええたということである。
本田宗一郎は愛妻家だったろうか? そうであったとしてもそうでなかったとしても不思議は無いな、というのは不埒な想像かもしれない。理由は後述する。
さて次のポイントに《第1回全国自動車競走大会》の逸話がある。
これについては詳しい人も多いであろう、簡単に引用をしておく。
これは〝らしい〟エピソードであろう。
この時にどちらかがエンジニア、どちらかがドライバーとして活動したというのなら話もわかるのだが、両方きっちり出場しているのが興味深い。

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さて3つ目のポイント。《浜松高等工業学校の聴講》である。
この背景には自動車修理事業の拡大と東海精機重工業株式会社の社長就任がある。
本田は、ご存知の通りエンジニア色と現場色の強いタイプの経営者である。
そのこだわりは強いものがあり、勲一等瑞宝章親授式への出席で皇居に行くことになった際も作業着――すなわちツナギ行こうとした、という逸話がある。
だがひたすらにひとつの場所に居続けた人物でもなかったようである。
この時はみっちり3年間ほど金属工学の研究に打ち込んだらしい。
なお、余談に近いがここに少々転換期のようなものが発生している。
本田が金属工学の研究にいそしんだのは1937年からの3年間。
研究と言っても実学。アート商会で稼いだ金をどんどん使って実験、研究、開発を進め、特許も増えていった。
さて、転換の原因となった出来事というのは《戦争》である。
1938年には国家総動員法が発令され、1941年には太平洋戦争が始まる。
この時、本田がそれまで行っていたような研究と実験の方法は国が許すか許さないかということを気にしなければならないようになってしまった。
この学問への取り組みが1年早いか遅いかしていれば、本田の《研究》の成果は、そして本田宗一郎という人間が歩む道はがらりと違うものになっていたのだろう。

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〝人間休業〟とホンダの設立
戦後、本田は荒れていた。
何が原因だっただろう。
戦争での体験か、戦後に荒れた街でなすべきことが無かったのか。
ここで本田は、
らしい。この時期を〝人間休業〟と呼ぶ人もいたそうだ。
戦後というのは大きく3つの時期に分かれている。
ひとつは戦争直後の、いわゆる〝傷跡〟が残る時期。
そしてそれから割合すぐに訪れる、〝復興〟を目指した時期。
最後に訪れるのが戦後という観点から外れるか外れないか、という〝成長〟の時期である。この時期は高度経済成長期ともかぶっていく。
そういう意味だと本田のような男が力を発揮するのは、たしかに〝復興〟以降の話のようにも思える。時代はまだ〝傷跡〟が色濃く残る季節だった。
土や油にまみれることをいとわない男の、その人間性が垣間見れる一局面がどうやらここにもあるようである。
ちなみに、アート商会のほうは社員に譲り、その後設立した東海精機株式会社は売却がなされている。その資金は〝人間休業〟の元手にもなっていたのだが、売却先は《豊田自動織機》。
今のトヨタの本家筋にあたる。
ホンダの設立と藤沢武夫との出会い
さて事業を売却してやることが休業だけだというのも面白くない。
本田は一念発起して《本田技術研究所》を設立する。
興味深いのは会社の名前。ここで〝研究所〟という名称を使用していることである。
本田にとって本田技研の設立は、様々なことの再開であった。
戦争によって中断した研究の再開。事業の再開。そして人間の再開。
その再開を後押しするかたちで、また、その後の本田の事業を支えるかたちで登場したのが藤沢武夫である。
本田の創業者と言えば本田宗一郎である。
だが本田の柱と言えば本田と藤沢、2人の名前があがりやすいだろう。
彼らについて語るべきことは多いが、挙げているとキリが無い。
彼らを象徴しているであろういくつかの出来事を次項にて紹介しよう。
本田と藤沢

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本田が静岡県の生まれなのは前述したが、藤沢は東京都の生まれである。
藤沢は1910年、すなわち明治43年の生まれで、本田の4つ下にあたる。
創設者と参謀にふさわしい年齢差に思えるが、本田は差別をきらう人だったからそのあたりの序列は感じさせなかったかもしれない。
藤沢も鋼材小売店を経て1939年には《日本機工研究所》という〝研究所〟を設立している。
だがこれも戦争に関わる疎開などによって中断。
戦争が事業を中断させたという点についてはふたりは共通しているが、当時、その手の逸話はどこにでもあふれていたのだろう。
ふたりとも、怒るとめっぽうこわかった。
本田は怒ると暴力に走る。工具で殴られたという声もあるし灰皿で殴られたという声もある。
殴るにも色々あるが、あまり褒められたことではないだろう。
しかも、
というおまけがついている。
藤沢も怒るとこわかった。
そもそもが四角い顔に黒縁眼鏡、笑顔は〝豪快〟ときたら〝四角い寺内貫太郎〟がそこにいるようなものだろう。怒ってこわくないわけがない。
しかも文化人である。文化人というのは言葉をたくさん知っていて、役者などもよく見るから迫力のある怒り方というのも自然と学べてしまうのである。
というわけでついたあだ名が《ゴジラ》だった。これは本人の前ではとても言えなかっただろうと思うが現実はどうだったろうか。
そんなふたりだが、破天荒なことはやっても滅茶苦茶な経営をしていたわけではなかった。
危機を奇策でのりきったことはあったが、本来危機というのは凡策では乗り切れないものである。
引退
もうひとつ特筆しておきたいことがある。
このふたりの引き際についてである。
本田が突然社長を引退した理由については、大きく三つの説がある。
ひとつ目は低公害エンジンの開発について。
この時本田は、低公害エンジンを開発すれば会社のために大きな利益をもたらすと社員にもらしたそうである。
すると社員は、低公害エンジンは会社のために開発しているわけではなく、社会のために開発しているのだ、と〝反論〟したらしい。
それを受けて、自分の考え方が会社に寄っていると痛感した本田は、社長を引退することにしたという説。
ふたつ目は水冷エンジンと空冷エンジンの論争について。
当時、若い人々は公害問題に着目していることもあり、水冷エンジンの採用にわいていた。
だが、ここで本田が譲らない。これにはいくつかの理由があったが、もちろん若い人々にも言い分があった。そして対立が起こる。
事の顛末はよくまとめられているので引用させていただこう。
ホンダ・1300 - Wikipedia
みっつ目は藤沢武夫が後継者育成を理由に本田に引退を打診したという説である。
もっともこれは先の《藤沢のこの言葉に宗一郎は折れ》の部分のみを抜き出した場合にも成立する話だから、いくつかの逸話が混ざっている可能性がある。
だが、実際にそういった話が藤沢からだされたのならば、本田が受けてもおかしくはないだろうとも思う。
1973年、両者は示し合わせて現役を退く。
本田は取締役最高顧問と研究所長に、藤沢も取締役最高顧問になった。
本田技研工業株式会社創立25周年を前にしたこのふたりの颯爽とした引退は、特に素晴らしかったとされている。
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