まずは、ボウリングの基礎知識から!!・・・
ボウリングの起源

ナインピンボウリング
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9本という決められた数のピンを倒すという行為から、やがて「ナインピンズ・ボウリング(en:Nine-pin bowling)」(九柱戯)という一つのスポーツに派生し、宗教家の間では人気のあるスポーツとして栄えたそうだ。九柱戯はいまだにヨーロッパでは比較的メジャーな競技で、愛好者も多い。
17世紀になると多数の宗教家(清教徒)たちもアメリカへ移住したことで、アメリカでもボウリングが盛んになった。しかしナインピン・ボウリングは西部開拓時代・アメリカで禁酒法下において酒をめぐる賭け事に利用され禁止になり、反発した有志がピンを一本足しテン・ピン・ボウリングにしたことで法律の「ナインピンボウリングを禁ず。」を回避していた。それが現在のスタイルになったと言われる。
日本での始まりは??

オープン当初の「東京ボウリングセンター」
日本では江戸時代(幕末の文久元年)の1861年6月22日(5月15日)に、長崎市の大浦居留地に初めてのボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が開設されたのが最初であったが、近代的な日本のボーリング場の始まりは1952年(昭和27年)12月20日、日本で初めての本格民間ボウリング場 「東京ボウリングセンター」が、東京・青山に開業したのがそれであった。
ボウリングに関する”鼻高”トリビアをもう一つ!!
ボウリングは、「ボーリング」ではなく「ボウリング」と記述する。「ボーリング」と記述するものは、温泉や油田を掘るなどの掘削(あなほり!!)を意味する。
また、 ボウリングで左右の溝にボールが落ちることや、その溝のことは「ガーター」ではなく「ガター」と言うのが正しい言い方だそうだ。「ガター」は英語で「溝」という意味の「gutter」から来ており、「ガーター」と言うと「garter」の意味になり、それは女性の靴下止めや、ガーターベルトのガーターの意味になるという。
では、そろそろ本題へ!!
人気が爆発する前夜の状況

当時の岩上太郎氏
1960年代中盤になると、人々の暮らしも向上し、余暇の楽しみの一つとしてボウリングが注目を集めてくるようになる。野球、サッカー、テニスなども人気があったが、意外と男女が揃って一緒にできるリクレーションは少なかった。やはり男女の力の差が存在するのであろう。しかし、ボウリングは平等な立場でできるのも魅力の一つであり、またボウリング場も急激に機械化が進み、まぎらわしさやめんどくささもなくなっていたのも人気が出る要因の一つになった。
1967年には日本プロボウリング協会(JPBA)設立と同時に、岩上太郎や矢島純一などのトップボウラーたちがプロボウラーとなり、テレビでもボウリング番組を中継し始めていた。
ついにボウリングブーム到来!!
1968年になり、女子プロボウラーの選抜があり、須田 開代子、中山律子、並木恵美子など、13名が第1期生として誕生した。女子プロボウラーは男子と比較すると、若干迫力に劣っていた面もあったが、やはり華やぐし、明るくなるから不思議である。テレビも視聴率がぐんぐん上がって行くし、どこのテレビ局もボウリング番組をオンエアーするようになる。ついにボウリングブームの到来であった。
実力もライセンスNo.もNo.1だった須田開代子

ボウリングブームの頃の須田 開代子
ボウリング・ブームを覚えてますか?:昭和生まれだ、文句あっか!:So-net blog
1967年の第1回全日本選抜選手権で優勝。1969年プロ入り。同期の中山律子や並木恵美子と共に、高度成長期を背景にボウリングブームを支えた。
オイルショックによりボウリングブームが一気に下火になる中、1976年須田は女性だけのボウリングクラブ「ジャパンレディースボウリングクラブ」を設立。自ら初代代表に就任し、ボウリング業界復興に尽力した。(本人の意向で会長とは名乗らず、2代目藤原清子より会長となる。現在は中山律子が会長)
私生活では男子プロボウリング選手だった西城正明との結婚・離婚、自らを蝕んだ胃癌・食道癌など苦悩に満ちていた。
一度は病魔を克服して復活を果たした須田であったが、1995年に療養先のアメリカバージニア州内の病院にて心不全のため死去する。57歳だった。
「さわやか律子さん」の愛称まであった中山律子

ボウリングブームの頃の中山律子
画像・写真 | 伝説の「猪木VSアリ」戦が33年ぶりに放送! 5枚目 | ORICON NEWS
女子プロ誕生と共に中山も結果が付いて来る様になり、1969年9月に開催された女子プロ誕生記念大会で優勝。1970年3月22日の第1回全日本プロボウリング選手権大会でも優勝し、1970年8月21日には府中スターレーンで行われた、テレビ朝日(当時はNETテレビ)の『レディズ・チャレンジボウル』収録中に女子プロ初の公認パーフェクトゲームを達成する (女子プロ八月月例会・優勝決定戦で、対戦相手は海野房枝だった)。翌月のボウリング場オープン記念エキジビションでも「未公認」ながらパーフェクトを達成する。
当時私は、中学に通っていたが、学校では中山派と須田派に分かれて「仁義なき抗争」の中にいた覚えがある。須田と中山は、実力は伯仲していたが、中山の方が若干美人タイプだったので、男子は圧倒的に中山派が優勢であったが、女子は圧倒的に須田派が多かった。
筆者の私はどっちだったかって?? それは読者のご想像にお任せします。
賞金が絡むと必ず上位に食い込んでいた並木恵美子

ボウリングブームの頃の並木恵美子
日本選手
マイシューズ・マイボウルの流行!!
須田派、中山派もそうだが、もう一つ忘れることができないのが、マイシューズ・マイボウルの流行だ。当時、私の家とボウリング場が近かったので、ボウリング場の貸しロッカーを借りてそこに私のボール、シューズ、バッグなどを入れて週に2、3度は投げていたが、ボウリングが下火になるにつれ、見向きもしなくなったよなあと、今更ながら思い出にふけっている。