プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆ににも投稿してもらいたいわよ!


プロレス総選挙2017の順位結果を発表!栄えある1位は誰だったの!?

プロレス総選挙

テレビ朝日

まずはWBCの野球放送の延長で深夜になってしまって番組を見れなかった方や寝落ちした方にプロレス総選挙2017順位結果を発表したいわ!色々ご意見あるかと思うけど10000人のファンと現役、OB&OGプロレスラーの投票で決まった結果よ!

1位 アントニオ猪木

2位 ジャイアント馬場

3位 タイガーマスク(初代)

4位 オカダ・カズチカ

5位 力道山

6位 棚橋弘至

7位 ジャンボ鶴田

8位 獣神ライガー

9位 三沢光晴

10位 スタン・ハンセン

11位 長州力
12位 武藤敬司
13位 小橋健太
14位 天龍源一郎
15位 ケニー・オメガ
16位 橋本真也
17位 蝶野正洋
18位 ハルク・ホーガン
19位 真壁刀義
20位 アンドレ・ザ・ジャイアント

こんな結果だったのよ!どう思うかしら?みなさんは?あたしは全部一緒に投票したことが間違いだと思うわ!まずは「日本人ヘビー級」「日本人ジュニア」「外国人ヘビー級」「外国人ジュニア」「日本人マスクマン」「外国人マスクマン」に分けて投票したいの!それではまずは「邦人ヘビー級」を今回は御贈りしたいわ!あくまでもあたしの独断だからね!

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

第10位 高野俊二(拳磁)

「人間バズーガ」
「野良犬」

高野俊二

imgur.com

ドロップキックの代名詞は現在「オカダ・カヅチカ」だけど、この男のドロップキックは当時のプロレスファンは度肝を抜かれたはずよ!あたしにとっては忘れられないレスラーのひとりよ!

高野俊二(拳磁)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1981年12月8日、新日本プロレス・蔵前国技館での新倉史祐戦でデビュー。豪快な勝利で将来のエースを予感させた。翌1982年初め、協栄ボクシングジムより新日本プロレスへ日本人初のボクシング世界ヘビー級王者を誕生させる計画が持ち込まれ、候補として高野がピックアップされた。その後当時WBA世界ライトフライ級王者だった渡嘉敷勝男とハワイでトレーニングを開始するが、毒入りオレンジ事件の余波でプランは中止。プロレスに復帰後すぐにカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに武者修行に出発。1984年、長州力らの離脱による日本人選手層の薄さをカバーするために帰国。未完の大器という扱いでメインやセミでタッグパートナーとして抜擢され、この当時暗黒増殖団としてはびこっていたマシン軍団との抗争の一派に名を連ねる。また一方でビッグネームの外国人選手との対決も多く組まれたが、対戦成績は芳しくなく、デビッド・シュルツやビリー・ジャックとのシングルマッチでは1分前後で敗退という苦い経験もする。しかし、ブルーザー・ブロディには気に入られており、4度のシングル戦のうち後半2回はブロディの希望だったことを、後に雑誌のインタビューで高野本人が語っている。しかし、生来のムラッ気から試合毎の落差が激しく、マシン軍団との6人タッグマッチでのコーナーポストでの戦意喪失によるKO負けや、あまりのふがいなさにアントニオ猪木がリングに飛んできて活を入れるというシーンまであった。1985年、スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤と共にカルガリーハリケーンズを結成し、新日本プロレスを離脱。以降は全日本プロレスを主戦場とし、1986年からはAWA地区への二度目の海外武者修行へ。覆面レスラーのスーパー・ニンジャ(Super Ninja)に変身してマサ斎藤のパートナーとなり、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、カート・ヘニング、レオン・ホワイト、スコット・ホールらと対戦した。1987年にはNWAの傘下団体だった太平洋岸北西部PNWにも出場、7月25日にオレゴン州ポートランドにて、リップ・オリバーと組んでマイク・ミラー&ココ・サモアからNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している。同地区では「アメリカン・ニンジャ」ことブライアン・アダムスとも抗争を展開した。しかし帰国前後にスーパー・ストロング・マシンとヒロ斎藤の新日復帰を受けてカルガリーハリケーンズは解散となり、「'88エキサイト・シリーズ」から正式に全日本プロレス所属となる。2代目タイガーマスクや高木功、田上明、仲野信市とともに「決起軍」を結成するが、ジャイアント馬場の「全然決起しないから」の一声ですぐに解散となる。しかし、馬場は高野の素材に期待をしており、積極的にジャンボ鶴田とのタッグをマッチメイクしていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%8B%B3%E7%A3%81

高野拳磁 - Wikipedia

第9位 キラー・カーン(小澤正志)

「蒙古の怪人」
「戦うモンゴリア」

キラー・カーン

imgur.com

やはり「キラー・カーン」と言えば「アンドレ・ザ・ジャイアント」の足を負った男としても有名よね!あの「モンゴリアンチョップ」はのちの「天山広吉」の代名詞の技になるわけだけど元祖はこの方の技なのよね!

キラー・カーン(小澤正志)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦で小沢正志のリングネームでデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二、木村聖裔、大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にヨーロッパへ遠征。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行した。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発する。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1月28日にはエル・トレオにてミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑戦した。1979年3月からはアメリカ本土に進出しNWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという。フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケアと共闘し、主力ヒールとしてダスティ・ローデスやジャック・ブリスコら大物選手と抗争。1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に登場し、トミー・リッチ、トニー・アトラス、ミスター・レスリング2号、そして当時ジョージアでベビーフェイスのポジションにいたスタン・ハンセンらと対戦。アブドーラ・ザ・ブッチャーやイワン・コロフ、マスクド・スーパースター、プロフェッサー・タナカ、マサ斎藤ともタッグを組んだ。1980年末よりWWFに参戦。12月29日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させたとして、ヒール人気は急上昇。瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。凱旋帰国はアンドレ足折り事件の直前となる1981年3月開幕の『ビッグ・ファイト・シリーズ第1弾』。後半戦に特別参加するタイガー・ジェット・シン&上田馬之助との共闘も噂されたが、最終的には日本陣営に収まった。開幕戦ではメインエベントでアントニオ猪木とタッグを組み、ハルク・ホーガン&ドン・ムラコと対戦。ムラコに反則負けを喫したものの、日本においてもトップグループの地位に着いた。足折り事件直後の6月24日には蔵前国技館において、後にタッグを組むタイガー戸口と対戦(流血戦の末、反則負け)。翌1982年4月1日に蔵前国技館で行われた『第5回MSGシリーズ』の優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権した猪木の代打として因縁のアンドレと覇を争い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ名勝負を演じた。年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』では戸口と組んで準優勝を果たした。その後1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3

キラー・カーン - Wikipedia

8位 マサ・斎藤(斎藤 昌典)

「獄門鬼」
「監獄レスラー」

マサ・斎藤

imgur.com

やはり「マサ・斎藤」と言えば「バックドロップ」の使い手よね!「ひねりを加えたバックドロップ」こそマサ斎藤の必殺技で「ジャンボ鶴田」「後藤達俊」と並ぶ「日本三大バックドロップの使い手」だと思うわ!

マサ・斎藤(斎藤 昌典)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。アメリカではミスター・サイトーまたはマサ・サイトーをリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E6%96%8E%E8%97%A4

マサ斎藤 - Wikipedia

7位 坂口征二

「世界の荒鷲」

坂口征二

imgur.com

この「坂口征二」の強さをあたしが思い知ったのは「UWF」との5対5時だったかしら?鬼の形相で技と言うよりは投げまくる坂口にリアル戦いを売りにしていたUWFの選手たちの腰が引けていたのを思い出すわ!

坂口征二のキャリア(Wikipediaより抜粋)

プロレス入り後、すぐにアメリカ合衆国に武者修行の遠征を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け。その後もNWAの主要テリトリーを転戦し、「ビッグ・サカ」などのリングネームで活躍。ジョージアではジョニー・バレンタイン、トロントではザ・シーク、ダラスではビル・ミラー、カンザスシティではパット・オコーナーなど、各地でトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。武者修行からの凱旋帰国後はジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に優勝。その後、1971年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座を1972年2月11日に獲得、途中、9月6日にザ・シークに王座を奪われるも翌日には奪回、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、1972年5月19日にロサンゼルスにてザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取。以降、ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、キラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱、それ以降日本プロレスのエースとなった。インタータッグは一旦返上するが、12月2日に大木金太郎とのコンビでジン・キニスキー&ボボ・ブラジルを破り再び戴冠した。1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で、若手の木村聖裔、小沢正志、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスを救った。ゴールデンタイムで放送され、猪木・坂口は「黄金コンビ」と呼ばれ、全日本プロレスをしのぐ人気を誇るようになる。しかし、猪木と対等という条件はいつの間にか反故にされ、大功労者の坂口は二番手として猪木をサポートする側に回るようになる。1974年8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がついていた。1976年にペドロ・モラレス、1977年にマスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木金太郎との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座戴冠を果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦した。1979年1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となった。しかし、当時は藤波辰巳が次代を担う新星として台頭していたため、坂口もやや影が薄くなりつつあり、北米王座にしても猪木のNWF王座に比べると挑戦者は明らかに見劣りした。この王座は同年9月21日にタイガー・ジェット・シンに敗れて失うが、直後の11月8日にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座に挑戦し、これを奪取する。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレン、ラリー・シャープ、上田馬之助、ジ・エンフォーサー、ドン・ムラコなどを相手にWWF版の防衛を重ねた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%BE%81%E4%BA%8C

坂口征二 - Wikipedia

6位 藤原喜明

「関節技の鬼」
「昭和のテロリスト」
「問答無用の仕事師」

藤原喜明

imgur.com

「藤原喜明」と言えば「関節技」のイメージが強いと思うの。でも、あたしがしびれるのはやっぱり「一本足頭突き」よ!頭突きで会場を沸かせるレスラーなんて「大木金太郎」以来見たことがなかったわ!

藤原喜明のキャリア(Wikipediaより抜粋)

岩手県立黒沢尻工業高等学校卒業後、サラリーマンや板前を経て、1972年に23歳で新日本プロレスに入門。デビュー戦は10日後の同年11月12日、和歌山県白浜町坂田会館の藤波辰巳戦。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかしアントニオ猪木のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。1975年、第二回カール・ゴッチ杯で木村たかし(現・健悟)を破り優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会で、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃し“テロリスト”として一躍脚光を浴びる。長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる[1]。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃からワールドプロレスリング(テレビ朝日)では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次UWFに参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱(1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。1993年、1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。1996年、ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。1997年にはWARに出場し、天龍源一郎やアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。その技術を見込まれ、男女問わず(特に神取忍は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。ZERO-ONE(現ZERO1)時代はフリーとしての参戦ながら橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。現在も不定期ながらリアルジャパンプロレス、ドラディション、全日本プロレスなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。近年では新日本プロレスのレッスルキングダムにおけるニュージャパンランボーに2年連続で出場している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%96%9C%E6%98%8E

藤原喜明 - Wikipedia

5位 ジャイアント馬場

「東洋の巨人」

ジャイアント馬場

imgur.com

馬場さんを5位とはとお怒りの方がいるかと思われるけど、あたしにとって馬場さんは凄いプロレスラーであると同時に「社長」なのよね。レスラーとしても偉大なんだけどやっぱり「葉巻」をくわえて椅子にドカッと座ってる馬場さんが好きなんであえてこの5位にランクインさせてもらったわ。

ジャイアント馬場のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1960年9月30日、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)ら、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、試合内容を評価した力道山により初渡米武者修行を命ぜられ、同年7月アメリカに遠征する。1962年6月、シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに勝利し、一旦、NWA世界ヘビー級王者のベルトを腰に巻き、その後の連戦で防衛を果たすも、第4戦目で観客がリングに乱入する騒ぎが起こり、結局このときは正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった。1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。翌1964年には、アメリカで、NWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦したが、世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、当時の馬場のレスラーとしての実力がいかに卓越していたかを示す証明である。1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、日本プロレスのエースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターナショナル・ヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。1967年5月からアントニオ猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にインターナショナル・タッグ王座を獲得した際にBI砲という呼称が定着した。1972年10月に日本テレビの後押しで全日本プロ・レスリング株式会社(全日本プロレス)(以下、全日本)を旗揚げした。馬場は、全日本旗揚げに際して、日本プロレス時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始、合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。創立1年強の1974年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得、名実ともに世界のジャイアント馬場となった。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインターナショナル・タッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たし、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。1984年4月、ハンセン&ブロディのハイジャック・パイルドライバーで首を痛め、次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップした。1985年7月、スタン・ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で明るく楽しいプロレスを展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けた。生涯で通算5769試合を行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E9%A6%AC%E5%A0%B4

ジャイアント馬場 - Wikipedia

4位 天龍源一郎

「風雲昇り竜」
「ミスタープロレス」

天龍源一郎

imgur.com

やはり水平チョップと言えば真っ先に浮かんで来るのは天龍よね。「小橋健太」も全日時代に散々天龍との戦いで身に付けたのがあのチョップだったんだと思うわ。それにしても日本で「パワーボム」を定着させてのも天龍かも知れないわね。

天龍源一郎のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1976年11月13日にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューし、帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う。日本デビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館におけるジャイアント馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る。MACWで1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、NWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。タイトル初戴冠を果たした。帰国後の同年7月30日、ディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。このインター・タッグ戦からライバル団体である新日本プロレスのアントニオ猪木に遠慮して全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田と共に「鶴龍コンビ」を結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア組戦では馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲を受けている。この年、プロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。さらに長州率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグで長州・谷津組と抗争を繰り広げ、人気も得た。1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。その後天龍同盟を結成(原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。特に鶴田との鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾る。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。1990年横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱しSWSに移籍した。1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッションと対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年に全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王者に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。2004年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦し、中西学とシングルで対決し、結果は天龍の敗北。2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。2015年8月15日対オカダ・カヅチカ戦で引退。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%BE%8D%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E

天龍源一郎 - Wikipedia

3位 ジャンボ鶴田

「完全無欠のエース」

ジャンボ鶴田

imgur.com

ジャンボ鶴田と言えばやはり「バックドロップ」。「ルー・テーズ」の後継者とまで言われたわ。でもそれだけじゃないのよね鶴田は。「膝」の技が強烈だったの!勿論代名詞の「ジャンピング・ニーパット」も凄いんだけど、長州との抗争で見せた「キッチンシンク」は本当に凄い切れ味だったの。もし、見れるならもう一度あの切れ味を見てみたいわ!

ジャンボ鶴田のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1972年10月31日、全日本プロレスへの入団後ほどなくして、テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピアを相手にプロデビュー。凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー(フォール勝ち)。3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、喧嘩番長ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝など、徐々に実績を上げていく。この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックを大一番で用いている。1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を心がけた。8月31日の蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに敗れるまで16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はスタミナ切れのためロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて若手レスラーたちと大阪市内へ飲みに出かけたといった伝説を作る。鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった。1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。最後のタイトルマッチとなったのは、1992年10月7日の世界タッグ選手権だった。田上と組み、殺人魚雷コンビことゴディ&ウィリアムス組の挑戦を受けた。1992年11月にB型肝炎を発症したことを告白、長期入院を余儀なくされた。1993年の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。そして1999年1月31日の馬場が死去した直後に引退・全日本取締役辞任会見をキャピトル東急ホテルで行う。2000年5月13日、永眠。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E9%B6%B4%E7%94%B0

ジャンボ鶴田 - Wikipedia

2位 長州力

「革命戦士」

長州力

imgur.com

長州力のキャリア(Wikipediaより抜粋)

長州力は無骨で華がない選手と言われていたの。でも、「かませ犬」発言から一気に「革命戦士」となって行く様をリアルタイムに見ていたあたしにとってはやはり想いが強いレスラーだったわ!「安生洋二」との戦い後のインタビューでの「切れてないですよ」もインパクトあったわ!

デビューは1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦。サソリ固めで勝利を飾る。デビュー時のリングネームは日本名・吉田 光雄であったが、後に故郷山口の旧名である長州と力道山から長州力と改名。「ワールドプロレスリング」の視聴率が20%を超えるという「新日ブーム」で沸く1982年に入ると、藤波辰巳との「名勝負数え歌」で一躍ブレイク。短い髪が流行っていた1980年代に、メキシコ武者修行から帰国、そのまま長髪になっていた長州は『革命戦士』のニックネームとともに時代の寵児となり、マンハッタンコンビ(ボブ・オートン・ジュニア&アドリアン・アドニス)を模したツープラトン攻撃と素早いロープワークとを駆使し、短時間で勝負を付けるプロレス・スタイル「ハイスパート・レスリング」はのちにプロレス界の主流となっていった。ブレイクの発端となったのは「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない」という発言だが、長州が実際に発した言葉は「なんで(入場の際に)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ、なんで(メキシコで当時実力No.1のカネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取し凱旋してきた)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前に(試合前での)コールされなきゃいけないんだ」であった。きっかけとなったタッグマッチは、メキシコ遠征から凱旋帰国した当初 1982年10月8日後楽園ホールで行われた 「アントニオ猪木、藤波辰巳、長州力vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレン、S・D・ジョーンズ」である。その後、当時の体制に反旗を翻して、師と仰ぐマサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成。国際軍団を振り切る形で長州と活動を共にするアニマル浜口、浜口と同じく国際軍団の寺西勇、タイガーマスクとの抗争で同じく新日軍を敵に回していた小林邦昭、そしてレスリング日本一の触れ込みで新日入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成する。1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを真似た「リキ・ラリアット」を頻繁に使うようになる。ニューヨークにて発掘されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を巡って藤波と「名勝負数え唄」といわれる連戦を展開、1983年4月3日には藤波をピンフォールで破り王座奪取。その後ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移すという、新日本に対し最初の造反を行う。長州の全日本参戦という話題性は中継を行う日本テレビ放送網を動かし、1985年秋から全日本プロレス中継がゴールデンタイムに復帰した。そして、全日本プロレスのエースであるジャンボ鶴田と、大阪城ホールでのメインイベントにて60分フルタイムの激闘を展開した。1986年2月5日に谷津嘉章とのチームで鶴田、天龍の鶴龍コンビを破ってインターナショナル・タッグ王座を奪取。さらに、二か月後の4月5日にはハンセンを破ってPWFヘビー級王座を奪取。この王座は全日本創設以来の看板タイトルで、この時点で鶴田も天龍も奪取していなかった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%8A%9B

長州力 - Wikipedia

16dソフビコレクション008 長州 力

16dソフビコレクション008 長州 力(ME) | GOODSMILE ONLINE SHOP

1987年2月から病気(ガングリオン)で全日本のシリーズを欠場し、そのまま新日本に復帰。契約問題で馬場および日本テレビと揉め大騒動に発展した。これによりジャパンプロレスは崩壊。1987年、長州の師であり維新軍でも頭目格であったマサ斎藤と猪木との抗争が始まる。これに伴い、調印式などに長州も姿を見せるようになりいよいよ復帰が秒読みと思われつつあった中、4月27日両国国技館での猪木vs斉藤戦に際し、セコンドとして幾人かの元ジャパンプロ盟友らとついに新日会場に姿を見せる。試合前の協議でリング下につくセコンドは馳浩のみとなり、長州はリングサイドでの観戦を余儀なくされたが、斉藤がKO負けした直後は周囲に押さえられて未遂に終わるも、リングに駆け上がらんばかりであった。これを契機に、ついに長州の新日復帰が加速するかに見えたが、新日側は長州軍の参戦カードを中々組まず、痺れを切らせた長州側は5月30日、鹿児島県立体育館大会にてカードジャックを強行、第8試合にて長州は斉藤とのタッグで出陣の運びとなったが、この入場時に藤原が3年前を髣髴とさせるテロ行為に出る。鉄パイプ奇襲で負傷した長州はこの日はマシンに試合を譲ることになった。中一日をおいての6月1日、愛知県体育館にてマシンとのタッグで2年8か月ぶりの新日マットでのファイトに勝利を飾った。長州側の陣容は、マサ斎藤、小林邦昭、カルガリーハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、またマシンとともに常に行動を共にしていたヒロ斎藤、更に専修大学の後輩でジャパンプロ出身の馳浩、そしてジャパンプロ生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。正式な軍団名は無かったが全員リキプロに所属し、テレビやマスコミからは『ニュー維新軍』と呼ばれていた。この合流に際し、一足先に新日本に合流していた前田日明率いるUWFとのからみがファンに期待されたが、目立った直接対決の機会のないまま新世代として長州、藤波、前田らは共闘し、猪木世代を相手に世代闘争を繰り広げることとなる。しかし長州の一存でほどなくこのアングルも瓦解、新日本隊対長州軍という流れへと移行していく。次第にUWFの存在を希薄化され解体吸収されることを危惧しナーバスになった前田が長州の姿勢を「言うだけ番長」と揶揄するなど、徐々に確執が顕著になっていく中、11月19日後楽園ホールの長州軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田による長州への顔面蹴撃事件が勃発。これにより長州は眼窩底骨折で長期欠場、前田は新日本を解雇され独立の道を歩み、第二次UWFの旗揚げへと繋がる。長州・新日本とUWFという後のプロレス界を席巻、牽引していく二大潮流の源流であり、また両者両団体の因縁の発端と言う意味でも、プロレス界における昭和から平成へのひとつのエポックとなった事件といえる。長州は1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、名実共に新日本マットの中心となった。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争を主導し、平和のための平壌国際体育・文化祝典で生じた赤字を埋めることに成功する。1998年1月4日の東京ドーム大会で引退。引退試合は藤田和之、吉江豊、高岩竜一、飯塚高史、獣神サンダー・ライガーの5人掛けであった。引退前は現役復帰を完全否定していたにもかかわらず大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月に現役復帰した。2003年3月WJプロレス(ファイティングオブワールドジャパン)を旗揚げしたものの、多数の「諸般の事情」により頓挫、ハッスルやインディー団体へ参戦を続け、2004年新日本に一時復帰。2009年にはレスラー生活35年を迎え、記念パーティ「長州力レスラー生活35周年を祝う会」を開催した。11月には征矢学と全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。1985年と1986年に谷津と組んで出場して以来23年ぶりに全日本プロレスのリーグ戦に出場することとなった。2010年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会「レッスルキングダム」にて蝶野正洋、中西学、テリー・ファンクとタッグを組み、飯塚高史、矢野通、石井智宏、アブドーラ・ザ・ブッチャーのヒール軍団と対戦。試合では長州のリキラリアットと蝶野のシャイニングケンカキックによるコンビネーション技を披露した。2010年10月20日、藤波辰爾、初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。旗揚げ当日は、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎討ちも行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%8A%9B

長州力 - Wikipedia

1位 アントニオ猪木

「燃える闘魂」

アントニオ猪木

imgur.com

全日本ファンの方、ごめんなさい。私は新日本派なの。となれば、やっぱり猪木が1位になってしまうわ!猪木のファイトに歓喜し、泣き、叫びそんな時代を送った方がいっぱいいるのではないかしら?入場時の姿、「卍固め」の時の猪木が私にとって最高の猪木よ!

アントニオ猪木のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた。ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名。このリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレスと国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた。1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる。日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。しかし、馬場との対戦要求が容れられなかったことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)に追放処分を受ける。日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E7%8C%AA%E6%9C%A8

アントニオ猪木 - Wikipedia

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾しが、その後クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した。この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。1995年(平成7年)12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。1996年(平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したジョージ・フォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたマイナー団体のプロボクシング世界戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E7%8C%AA%E6%9C%A8

アントニオ猪木 - Wikipedia

みなさんどうだった?自分の好きなレスラーは入っていたかしら?「プロレス総選挙」を細かく分けていくと意外な選手がランクインするかも知れないわ!あなたもやってみたらどうかしら?次は「外国人ヘビー級レスラー」編でお会いしたいわ!

関連する投稿


レトロゲーム配信サービス「プロジェクトEGG」より『トラぶるCHASER 第1話』『3Dテニス』が配信スタート!!

レトロゲーム配信サービス「プロジェクトEGG」より『トラぶるCHASER 第1話』『3Dテニス』が配信スタート!!

レトロゲーム関連の復刻・配信ビジネスなどを行うD4エンタープライズが運営するレトロゲーム配信サービス「プロジェクトEGG」にて、新規コンテンツ『トラぶるCHASER 第1話 トラブルは空から未来から(PC-9801版)』『3Dテニス(MSX版)』の配信がスタートしました。


『オホーツクに消ゆ』と北海道紋別市がコラボ!ゲームに登場するシーンを使用したアクリルジオラマが「ふるさと納税返礼品」に!

『オホーツクに消ゆ』と北海道紋別市がコラボ!ゲームに登場するシーンを使用したアクリルジオラマが「ふるさと納税返礼品」に!

ジー・モードより、推理アドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ ~追憶の流氷・涙のニポポ人形~』の世界観を再現したオリジナルグッズが、北海道紋別市のふるさと納税返礼品として提供されます。


抜群のスタイルで💦世の脚光を浴びた『広田恵子』現在は?!

抜群のスタイルで💦世の脚光を浴びた『広田恵子』現在は?!

高校時代からモデル活動を始め1986年に「カネボウ・スイムウエアイメージモデル」として脚光を浴びた広田恵子さん。現在は家族で〇〇を組んで活動している・・・。


完璧・無量大数軍の一人「完肉」の称号を持つキン肉マン『ネメシス』が、SpiceSeedキン肉マンシリーズに登場!!

完璧・無量大数軍の一人「完肉」の称号を持つキン肉マン『ネメシス』が、SpiceSeedキン肉マンシリーズに登場!!

ハイクオリティフィギュアの製造・販売で好評を博している株式会社SpiceSeed フィギュア事業部より、キン肉マンシリーズのフィギュア『ネメシス』が発売されます。


懐かしの名作が勢揃い!特製クリアしおりが貰える書店フェア「藤子・F・不二雄 S(すこし)★F(ふしぎ)な世界」が開催!!

懐かしの名作が勢揃い!特製クリアしおりが貰える書店フェア「藤子・F・不二雄 S(すこし)★F(ふしぎ)な世界」が開催!!

藤子・F・不二雄による名作の数々を紹介する書店フェア「藤子・F・不二雄 S(すこし)★F(ふしぎ)な世界」が、8月7日(木)より全国のフェア参加書店にて順次開催されます。


最新の投稿


世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。