プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆ににも投稿してもらいたいわよ!


プロレス総選挙2017の順位結果を発表!栄えある1位は誰だったの!?

プロレス総選挙

テレビ朝日

まずはWBCの野球放送の延長で深夜になってしまって番組を見れなかった方や寝落ちした方にプロレス総選挙2017順位結果を発表したいわ!色々ご意見あるかと思うけど10000人のファンと現役、OB&OGプロレスラーの投票で決まった結果よ!

1位 アントニオ猪木

2位 ジャイアント馬場

3位 タイガーマスク(初代)

4位 オカダ・カズチカ

5位 力道山

6位 棚橋弘至

7位 ジャンボ鶴田

8位 獣神ライガー

9位 三沢光晴

10位 スタン・ハンセン

11位 長州力
12位 武藤敬司
13位 小橋健太
14位 天龍源一郎
15位 ケニー・オメガ
16位 橋本真也
17位 蝶野正洋
18位 ハルク・ホーガン
19位 真壁刀義
20位 アンドレ・ザ・ジャイアント

こんな結果だったのよ!どう思うかしら?みなさんは?あたしは全部一緒に投票したことが間違いだと思うわ!まずは「日本人ヘビー級」「日本人ジュニア」「外国人ヘビー級」「外国人ジュニア」「日本人マスクマン」「外国人マスクマン」に分けて投票したいの!それではまずは「邦人ヘビー級」を今回は御贈りしたいわ!あくまでもあたしの独断だからね!

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

第10位 高野俊二(拳磁)

「人間バズーガ」
「野良犬」

高野俊二

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ドロップキックの代名詞は現在「オカダ・カヅチカ」だけど、この男のドロップキックは当時のプロレスファンは度肝を抜かれたはずよ!あたしにとっては忘れられないレスラーのひとりよ!

高野俊二(拳磁)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1981年12月8日、新日本プロレス・蔵前国技館での新倉史祐戦でデビュー。豪快な勝利で将来のエースを予感させた。翌1982年初め、協栄ボクシングジムより新日本プロレスへ日本人初のボクシング世界ヘビー級王者を誕生させる計画が持ち込まれ、候補として高野がピックアップされた。その後当時WBA世界ライトフライ級王者だった渡嘉敷勝男とハワイでトレーニングを開始するが、毒入りオレンジ事件の余波でプランは中止。プロレスに復帰後すぐにカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに武者修行に出発。1984年、長州力らの離脱による日本人選手層の薄さをカバーするために帰国。未完の大器という扱いでメインやセミでタッグパートナーとして抜擢され、この当時暗黒増殖団としてはびこっていたマシン軍団との抗争の一派に名を連ねる。また一方でビッグネームの外国人選手との対決も多く組まれたが、対戦成績は芳しくなく、デビッド・シュルツやビリー・ジャックとのシングルマッチでは1分前後で敗退という苦い経験もする。しかし、ブルーザー・ブロディには気に入られており、4度のシングル戦のうち後半2回はブロディの希望だったことを、後に雑誌のインタビューで高野本人が語っている。しかし、生来のムラッ気から試合毎の落差が激しく、マシン軍団との6人タッグマッチでのコーナーポストでの戦意喪失によるKO負けや、あまりのふがいなさにアントニオ猪木がリングに飛んできて活を入れるというシーンまであった。1985年、スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤と共にカルガリーハリケーンズを結成し、新日本プロレスを離脱。以降は全日本プロレスを主戦場とし、1986年からはAWA地区への二度目の海外武者修行へ。覆面レスラーのスーパー・ニンジャ(Super Ninja)に変身してマサ斎藤のパートナーとなり、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、カート・ヘニング、レオン・ホワイト、スコット・ホールらと対戦した。1987年にはNWAの傘下団体だった太平洋岸北西部PNWにも出場、7月25日にオレゴン州ポートランドにて、リップ・オリバーと組んでマイク・ミラー&ココ・サモアからNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している。同地区では「アメリカン・ニンジャ」ことブライアン・アダムスとも抗争を展開した。しかし帰国前後にスーパー・ストロング・マシンとヒロ斎藤の新日復帰を受けてカルガリーハリケーンズは解散となり、「'88エキサイト・シリーズ」から正式に全日本プロレス所属となる。2代目タイガーマスクや高木功、田上明、仲野信市とともに「決起軍」を結成するが、ジャイアント馬場の「全然決起しないから」の一声ですぐに解散となる。しかし、馬場は高野の素材に期待をしており、積極的にジャンボ鶴田とのタッグをマッチメイクしていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%8B%B3%E7%A3%81

高野拳磁 - Wikipedia

第9位 キラー・カーン(小澤正志)

「蒙古の怪人」
「戦うモンゴリア」

キラー・カーン

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やはり「キラー・カーン」と言えば「アンドレ・ザ・ジャイアント」の足を負った男としても有名よね!あの「モンゴリアンチョップ」はのちの「天山広吉」の代名詞の技になるわけだけど元祖はこの方の技なのよね!

キラー・カーン(小澤正志)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦で小沢正志のリングネームでデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二、木村聖裔、大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にヨーロッパへ遠征。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行した。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発する。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1月28日にはエル・トレオにてミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑戦した。1979年3月からはアメリカ本土に進出しNWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという。フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケアと共闘し、主力ヒールとしてダスティ・ローデスやジャック・ブリスコら大物選手と抗争。1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に登場し、トミー・リッチ、トニー・アトラス、ミスター・レスリング2号、そして当時ジョージアでベビーフェイスのポジションにいたスタン・ハンセンらと対戦。アブドーラ・ザ・ブッチャーやイワン・コロフ、マスクド・スーパースター、プロフェッサー・タナカ、マサ斎藤ともタッグを組んだ。1980年末よりWWFに参戦。12月29日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させたとして、ヒール人気は急上昇。瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。凱旋帰国はアンドレ足折り事件の直前となる1981年3月開幕の『ビッグ・ファイト・シリーズ第1弾』。後半戦に特別参加するタイガー・ジェット・シン&上田馬之助との共闘も噂されたが、最終的には日本陣営に収まった。開幕戦ではメインエベントでアントニオ猪木とタッグを組み、ハルク・ホーガン&ドン・ムラコと対戦。ムラコに反則負けを喫したものの、日本においてもトップグループの地位に着いた。足折り事件直後の6月24日には蔵前国技館において、後にタッグを組むタイガー戸口と対戦(流血戦の末、反則負け)。翌1982年4月1日に蔵前国技館で行われた『第5回MSGシリーズ』の優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権した猪木の代打として因縁のアンドレと覇を争い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ名勝負を演じた。年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』では戸口と組んで準優勝を果たした。その後1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3

キラー・カーン - Wikipedia

8位 マサ・斎藤(斎藤 昌典)

「獄門鬼」
「監獄レスラー」

マサ・斎藤

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やはり「マサ・斎藤」と言えば「バックドロップ」の使い手よね!「ひねりを加えたバックドロップ」こそマサ斎藤の必殺技で「ジャンボ鶴田」「後藤達俊」と並ぶ「日本三大バックドロップの使い手」だと思うわ!

マサ・斎藤(斎藤 昌典)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。アメリカではミスター・サイトーまたはマサ・サイトーをリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E6%96%8E%E8%97%A4

マサ斎藤 - Wikipedia

7位 坂口征二

「世界の荒鷲」

坂口征二

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この「坂口征二」の強さをあたしが思い知ったのは「UWF」との5対5時だったかしら?鬼の形相で技と言うよりは投げまくる坂口にリアル戦いを売りにしていたUWFの選手たちの腰が引けていたのを思い出すわ!

坂口征二のキャリア(Wikipediaより抜粋)

プロレス入り後、すぐにアメリカ合衆国に武者修行の遠征を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け。その後もNWAの主要テリトリーを転戦し、「ビッグ・サカ」などのリングネームで活躍。ジョージアではジョニー・バレンタイン、トロントではザ・シーク、ダラスではビル・ミラー、カンザスシティではパット・オコーナーなど、各地でトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。武者修行からの凱旋帰国後はジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に優勝。その後、1971年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座を1972年2月11日に獲得、途中、9月6日にザ・シークに王座を奪われるも翌日には奪回、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、1972年5月19日にロサンゼルスにてザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取。以降、ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、キラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱、それ以降日本プロレスのエースとなった。インタータッグは一旦返上するが、12月2日に大木金太郎とのコンビでジン・キニスキー&ボボ・ブラジルを破り再び戴冠した。1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で、若手の木村聖裔、小沢正志、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスを救った。ゴールデンタイムで放送され、猪木・坂口は「黄金コンビ」と呼ばれ、全日本プロレスをしのぐ人気を誇るようになる。しかし、猪木と対等という条件はいつの間にか反故にされ、大功労者の坂口は二番手として猪木をサポートする側に回るようになる。1974年8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がついていた。1976年にペドロ・モラレス、1977年にマスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木金太郎との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座戴冠を果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦した。1979年1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となった。しかし、当時は藤波辰巳が次代を担う新星として台頭していたため、坂口もやや影が薄くなりつつあり、北米王座にしても猪木のNWF王座に比べると挑戦者は明らかに見劣りした。この王座は同年9月21日にタイガー・ジェット・シンに敗れて失うが、直後の11月8日にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座に挑戦し、これを奪取する。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレン、ラリー・シャープ、上田馬之助、ジ・エンフォーサー、ドン・ムラコなどを相手にWWF版の防衛を重ねた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%BE%81%E4%BA%8C

坂口征二 - Wikipedia

6位 藤原喜明

「関節技の鬼」
「昭和のテロリスト」
「問答無用の仕事師」

藤原喜明

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「藤原喜明」と言えば「関節技」のイメージが強いと思うの。でも、あたしがしびれるのはやっぱり「一本足頭突き」よ!頭突きで会場を沸かせるレスラーなんて「大木金太郎」以来見たことがなかったわ!

藤原喜明のキャリア(Wikipediaより抜粋)

岩手県立黒沢尻工業高等学校卒業後、サラリーマンや板前を経て、1972年に23歳で新日本プロレスに入門。デビュー戦は10日後の同年11月12日、和歌山県白浜町坂田会館の藤波辰巳戦。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかしアントニオ猪木のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。1975年、第二回カール・ゴッチ杯で木村たかし(現・健悟)を破り優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会で、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃し“テロリスト”として一躍脚光を浴びる。長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる[1]。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃からワールドプロレスリング(テレビ朝日)では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次UWFに参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱(1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。1993年、1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。1996年、ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。1997年にはWARに出場し、天龍源一郎やアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。その技術を見込まれ、男女問わず(特に神取忍は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。ZERO-ONE(現ZERO1)時代はフリーとしての参戦ながら橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。現在も不定期ながらリアルジャパンプロレス、ドラディション、全日本プロレスなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。近年では新日本プロレスのレッスルキングダムにおけるニュージャパンランボーに2年連続で出場している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%96%9C%E6%98%8E

藤原喜明 - Wikipedia

5位 ジャイアント馬場

「東洋の巨人」

ジャイアント馬場

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馬場さんを5位とはとお怒りの方がいるかと思われるけど、あたしにとって馬場さんは凄いプロレスラーであると同時に「社長」なのよね。レスラーとしても偉大なんだけどやっぱり「葉巻」をくわえて椅子にドカッと座ってる馬場さんが好きなんであえてこの5位にランクインさせてもらったわ。

ジャイアント馬場のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1960年9月30日、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)ら、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、試合内容を評価した力道山により初渡米武者修行を命ぜられ、同年7月アメリカに遠征する。1962年6月、シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに勝利し、一旦、NWA世界ヘビー級王者のベルトを腰に巻き、その後の連戦で防衛を果たすも、第4戦目で観客がリングに乱入する騒ぎが起こり、結局このときは正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった。1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。翌1964年には、アメリカで、NWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦したが、世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、当時の馬場のレスラーとしての実力がいかに卓越していたかを示す証明である。1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、日本プロレスのエースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターナショナル・ヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。1967年5月からアントニオ猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にインターナショナル・タッグ王座を獲得した際にBI砲という呼称が定着した。1972年10月に日本テレビの後押しで全日本プロ・レスリング株式会社(全日本プロレス)(以下、全日本)を旗揚げした。馬場は、全日本旗揚げに際して、日本プロレス時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始、合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。創立1年強の1974年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得、名実ともに世界のジャイアント馬場となった。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインターナショナル・タッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たし、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。1984年4月、ハンセン&ブロディのハイジャック・パイルドライバーで首を痛め、次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップした。1985年7月、スタン・ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で明るく楽しいプロレスを展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けた。生涯で通算5769試合を行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E9%A6%AC%E5%A0%B4

ジャイアント馬場 - Wikipedia

4位 天龍源一郎

「風雲昇り竜」
「ミスタープロレス」

天龍源一郎

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やはり水平チョップと言えば真っ先に浮かんで来るのは天龍よね。「小橋健太」も全日時代に散々天龍との戦いで身に付けたのがあのチョップだったんだと思うわ。それにしても日本で「パワーボム」を定着させてのも天龍かも知れないわね。

天龍源一郎のキャリア(Wikipediaより抜粋)

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辰巳出版は2026年3月6日、プロレス専門誌『Gスピリッツ』の証言集第3弾『Gスピリッツ選集 第三巻 武藤敬司篇』を発売しました。平成の新日本プロレス黄金期を支え、日米を股にかけて活躍した武藤敬司のキャリアを、本人や関係者の貴重なインタビューで振り返る一冊。新録インタビューも追加された、全プロレスファン必携の保存版アンソロジーです。


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さらば「平成の借金王」安田忠夫さん。リストラ候補から大晦日の主役へ…愛された波乱の62年

「借金王」の愛称で親しまれた元プロレスラー安田忠夫さんが62歳で亡くなりました。2001年大晦日、ジェロム・レ・バンナ戦で見せた奇跡の逆転劇は今も語り草。相撲からプロレスへ、波乱万丈な人生と愛すべき人柄を振り返ります。


鈴木みのる対談集『俺のダチ。2』発売!前田日明との禁断対談や武藤・ライガーら豪華13名が集結

鈴木みのる対談集『俺のダチ。2』発売!前田日明との禁断対談や武藤・ライガーら豪華13名が集結

“世界一性格の悪い男”ことプロレスラー・鈴木みのるの対談集第2弾が発売。武藤敬司や獣神サンダー・ライガーらレジェンドに加え、前田日明との禁断の邂逅も実現!格闘技界の重鎮から人気声優まで、彼の人生を変えた13人の「ダチ」との熱いストロング談義を凝縮した、ファン必読の決定版がここに誕生した。


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俳優・水谷豊の真実に迫る著作『YUTAKA MIZUTANI』発売!監督としての人生と秘められた過去を解禁

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俳優・水谷豊の著作『YUTAKA MIZUTANI』が発売される。「傷だらけの天使」や「熱中時代」、そして「相棒」と、各時代でトップを走り続ける彼が、自らの監督作品を通じて「誰も知らない本当の水谷豊」を明かす。サイン本お渡し会や、代表作『青春の殺人者』の50周年記念Tシャツ発売など、ファン必見の情報が満載だ。


楳図かずお生誕90周年!60年代の伝説的「なかよし」付録漫画を完全再現した究極の復刻BOXが登場

楳図かずお生誕90周年!60年代の伝説的「なかよし」付録漫画を完全再現した究極の復刻BOXが登場

ホラー漫画の金字塔、楳図かずお氏の生誕90周年を記念し、1960年代に『なかよし』の付録として人気を博した「なかよしブック」が復刻BOXとして発売される。当時のサイズや色味、さらには広告や読者ページまで可能な限り再現。市場でも滅多に見られない超貴重な少女ホラー傑作5選が、今ここに蘇る。


武豊デビュー40年特別展が銀座三越で開催!日本ダービー6勝の軌跡やAI・AR等の最新コンテンツが集結

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日本競馬界のレジェンド、武豊騎手のデビュー40年を記念した特別展が2026年4月28日より銀座三越で開催される。前人未到の「日本ダービー6勝」に焦点を当てた展示や、AI・ARを駆使した最新デジタル体験、会場限定のオリジナルグッズ販売など、頂点を走り続けるジョッキーの栄光と進化を体感できる貴重な催事だ。


錦織一清、還暦イヤーを飾る初のソロ写真集&カレンダー発売!“ニッキ”の今を詰め込んだ永久保存版

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俳優、演出家、シンガーとして活躍する錦織一清が、2025年5月に迎えた還暦イヤーの締めくくりとして、人生初となるソロ写真集&カレンダー『言魂 -10カラットの呟きと共に-』を2026年5月29日に発売。本人プロデュースによる日常の風景や自ら吐露した10の呟きなど、現在の彼の魅力を凝縮した一冊となっている。


世界的ヒット作「テトリス」がボードゲームに!リアルなブロックを“手で積む”新感覚の対戦が熱い

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デジタルゲームの金字塔『テトリス』が、実際にブロックを手に取って積み上げる『テトリスボードゲーム』として2026年4月下旬に発売決定!2〜4人での同時対戦が可能で、カードによる駆け引きや「オジャマミノ」による妨害要素も。デジタルとは一味違う、空間認識力と戦略性が試されるアナログならではの魅力を紹介。