『ペリーヌ物語』は、私の中で一番古い世界名作作品
再放送ではなくて、私が本放送で見た『世界名作劇場』で一番古い作品が『ペリーヌ物語』です。
『ペリーヌ物語』が放送されていたのは、1978年1月1日~12月31日まででした。私が3歳の時に始まり、放送期間中に私は4歳になりました。小さい頃に、ペリーヌのイラストのある手さげのバッグをもっていて、お出かけする時にはそれを持ち歩いていました。

ペリーヌ物語
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この頃はまだ「カルピス」
『世界名作劇場』と『ペリーヌ物語』を紹介しましたが、実は『ペリーヌ物語』は『世界名作劇場』ではなくて、『カルピスファミリー劇場』と呼ばれていました。この呼び名は、『ペリーヌ物語』1作のみで使用されました。これは、フジテレビ19時半に放送されていたアニメ枠が『ペリーヌ物語』までは、カルピス一社提供だった為です。
『ペリーヌ物語』の前年まで放送されていた1977年『あらいぐまラスカル』、1976年『母をたずねて三千里』、1975年『フランダースの犬』までは、『カルピスこども劇場』。
1974年『アルプスの少女ハイジ』、1973年『山ねずみロッキーチャック』、1972年『ムーミン(新)』、1971年『アンデルセン物語』、1969年10月~1970年12月『ムーミン』、1969年4月~9月『どろろ(後に『どろろと百鬼丸』にタイトル変更)』は『カルピスまんが劇場』と呼ばれていました。
1975年の『フランダースの犬』からは日本アニメーション制作になりますが、それ以前は、『アルプスの少女ハイジ』、山ねずみロッキーチャック』はズイヨー映像制作、『ムーミン(新)』は企画ズイヨー、虫プロ制作、『アンデルセン物語』虫プロ制作、『ムーミン』は企画ズイヨー、26話まで東京ムービー制作、27話から最終話まで虫プロ制作、『どろろ』は虫プロ制作でした。
日本アニメーションがこの枠のアニメの制作を始めたのは、1975年の『フランダースの犬』からで、スポンサー会社は1978年の『ペリーヌ物語』までカルピス一社提供でした。
ペリーヌを演じたのは女子高生
さて、カルピス一社提供時代最後を飾った『ペリーヌ物語』。
ヒロインペリーヌを演じたのは、当時高校生だった鶴ひろみさん。
鶴ひろみさんといえば『きまぐれオレンジロード』の鮎川まどか役、『みゆき』の鹿島みゆき役、『めぞん一刻』の九条明日菜役、『GS美神 極楽大作戦!!』の美神令子役、『ドラゴンボール』のブルマ役、『それいけ!アンパンマン』のドキンちゃんが有名だと思います。

鶴 ひろみ さん
鶴 ひろみ | 株式会社青二プロダクション
鶴ひろみさんは、小学2年生の時に劇団ひまわりに所属されて、子ども時代から役者の仕事をされていました。
子役時代に、1968年に九重さん版の『コメットさん』63話『妖怪の森』9月9日放送(監督山際永三、脚本市川森一)で子役デビューされ、『恐怖劇場アンバランス』第4話『仮面の墓場』(監督山際永三、脚本市川森一)にも出演されています。
その鶴ひろみさんがペリーヌを演じた時は高校3年生で、ペリーヌ役が声優デビューでした。
憧れのあの人と
鶴さんが声優の仕事をするようになったきっかけ、声優の仕事に興味を持ったきっかけについて『神谷明と25人の声優たち みんな声優になりたかった』(主婦の友社)の中で、このように語っています。
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ペリーヌは赤い線
テレビの『ローマの休日』で池田昌子さんの吹き替えを聞いて、声優の仕事を知り興味を持った鶴さんが高校三年生の時にペリーヌ役のオーディションの話がきて合格し、ペリーヌの母親役が池田昌子さんと知った鶴さんは大感激された鶴ひろみさん。
憧れの池田昌子さんと一緒に声優の仕事を始めます。日本のアニメの場合は、出来上がった絵の映像に合わせて声の演技を吹き込んでいくのですが……。
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なんと、アフレコ時点ではペリーヌは赤い線だったのです。
少し話が逸れますが、ルパン三世の山田康雄さんは絵がない状態でベストの演技は出来ないから、ちゃんと絵を完成させてからでないと、アフレコはしないと言ってアフレコをしなかったそうです。
そのことについては、山田康雄さんが亡くなられた時に出版された徳間書店かきあげこ編『ルパン三世よ永遠━━ 山田康雄メモリアル』の中で、『ルパン三世』シリーズで銭形警部を演じた納谷悟朗さんが『ルパン三世』の思い出での中で語られています。
以下、『山田康雄メモリアル』より納谷悟朗さんのインタビューの一部からの引用です。

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この納谷悟朗さんの言葉から分かるように、アニメでアフレコ演技をする時にいかに絵があることが大事であるかが分かります。『ルパン三世』シリーズはレギュラー声優の方々も、ゲストの方も芸達者なベテランの方々でしたが、その人達が自分の演技に責任を持つために、絵の重要性を現場に求めていたこと。アフレコ段階で絵があるのは当たり前なのが、絵がある方が素晴らしいという現状が過去にあった事実。
さて世界名作劇場の場合は、神谷明さんと鶴ひろみさんの会話から少なくとも、1974年の『アルプスの少女ハイジ』の頃から、絵がない状態でアフレコをされていたことがわかります。今回、神谷明さんと鶴ひろみさんの会話は、『神谷明と25人の声優たちみんな声優になりたかった』の本から紹介させて頂いてますが、この本が刊行されたのが、平成6年1月、今から23年前のことです。『神谷明と25人の声優たちみんな声優になりたかった』は1992年6月22日~1993年1月1日に衛星ラジオ放送、PCMジパングのZ-3チャンネルで放送された声優の神谷明さんと青羽美代子さんをパーソナリティとした『ウルトラマニアバンザイ~アニメ天国コミックパラダイス』を書籍化した本です。つまり、対談でいう「現在」「いま」とは、1992年~1993年のことになります。
声優泣かせの世界名作劇場?
先に『ルパン三世』を例に挙げましたが、『神谷明と25人の声優たちみんな声優になりたかった』の中では、森功至さんがゲストに出演された時は、1967年の『マッハGO!GO!』では事前のリハーサルで既に絵が出来上がっていて、練習をされていた話があり、それについて、昔と違って今は線画や絵がない状態でのアフレコが多くなったことを困ると、神谷明さんが話されているので、1974年の『アルプスの少女ハイジ』の時代から、絵がない状態でアフレコを1990年代までしていたのが当たり前だった『世界名作劇場』は、1970年代当時では声優の泣かせのアニメだったのかもしれません。
絵がない状態で演技をする難しさは、納谷悟朗さんの言葉を紹介させていただきましたが、それを読むと役者、声優の素人の私でもその難しさが分かります。同じ台詞にしても、どんな表情で口にした言葉なのか、呼びかける声にしてもどのくらいの距離で離れているかで出す声の大きさも変化すると思います。さらにゲスト声優の方はどんな人物の容姿も分からない。そんなどんな状況に演じるキャラクターが置かれて、どんな表情で言葉を出しているか分からない状態で声優の人たちが演じていたかを知った上で、もう一度『世界名作劇場』のアニメを見てみると、声優の人たちの演技のすごさを改めて感じると思います。
参考文献『神谷明と25人の声優たちみんな声優になりたかった』主婦の友社、『かきあげこ編『ルパン三世よ永遠━━ 山田康雄メモリアル』徳間書店