まずは「やすきよ漫才」をひとつ
横山やすし
横山やすし
西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。
芸能界入り~「横山やすし」になるまで
芸能界入りまで
高知県宿毛市沖の島弘瀬の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。
少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、「漫才教室」に出場したことを契機に漫才師になることを決意。
芸能界入り
1959年堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成。ただデビュー当初はあまり受けなかった。
「横山やすし」の誕生まで
横山ノックに弟子入り⇒「横山やすし」誕生
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子になった。
師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。
「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。
ノックから新しい相方を世話され、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターの白タクシーを行い生活費を稼いだという。
ところがこの時期は何度コンビを組んでも、すぐに解散という流れを繰り返すことに。
やすきよ結成!!
西川きよしとの出会い
波乱含みの船出
きよしは当時はまだ研究員扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われた。
また新喜劇の作家が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったこともあり、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。
結成当初はコンビ仲が悪く、稽古のことできよしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもしばしばあった。やすしは「解散や!!」と怒鳴り散らしその場を後にし、後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され当時の二人に置かれた立場も考慮し、思いとどまる。
その時にきよしの発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグに。
コント55号とは違った「動き」で勝負
「やすきよ漫才」の確立
2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類。
そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。
やすしがメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。やすきよはこの流れから全国制覇を目指したが、同じ動きの笑いを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。
その後また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。
それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでテレビ中継の視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年には第5回上方漫才大賞を受賞した。
トラブルを起こすやすしと、着実にキャリアを積むきよし
最初の事件は、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響での長期謹慎。
やすしが謹慎の間、相方のきよしは司会者としての才能を見出し、きよし単独での番組も増え、復帰後もきよしが司会でやすしはその付け合せという場合になることも多くなった。
西川きよしの参議院選出馬
横山ノックと西川きよしの政界進出、横山やすしの自暴自棄
1986年にきよしが第14回参議院議員通常選挙に出馬し当選。
しかし、きよしの政界進出によるやすしの不満は募り、酒の量も増え、やがて度重なる不祥事とトラブルのために、芸人・タレントとしての価値は下落して行った。
この件に関して上岡龍太郎は「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」という旨の発言をしていた。
度重なる不祥事
自身の不祥事のみならず息子の不祥事も
酒気帯び出演による発言のトラブル、あるいは二日酔いによる仕事のドタキャンなど、度重なる荒んだトラブルで仕事は減少。
のみならず、息子の一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕される。
一八が被害者に対し一方的に暴行を加え、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に合わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン。」「自分の教育が間違っていた。」と、自身の息子に対する教育論の過ちを認めて号泣、その責任を全て負う形で自ら無期限謹慎を申し出る。
謹慎からの復帰、契約解除
きよしが司会をつとめる『すてきな出逢い いい朝8時』で芸能界復帰
ところが本格復帰してわずか3日後の1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラ(2代目・Z20系)を運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性(58歳)に軽傷を負わせた。
大阪府警が取調べた結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。
吉本との契約解除に伴い、完全に収入源を失ったやすしを支えるべく、啓子夫人はNHKの集金のパートタイマーとして働くなど、献身的にやすしを支え続けた。
芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか
Vシネマで芸能界に復帰
1992年に内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン!!』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。
漫才を演じているときとは何ら変わりない演技を見せるなど、活動の場をVシネマなどに移す。
晩年~死去
アルコール性肝硬変で51歳の若さで逝去
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。
死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。
亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったごみ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。
やすしは1986年に仕事先の徳島県で吐血し、その時に医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にます」と酒を止めるよう警告されていたが、警告を無視して酒を飲み続け、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化し、入退院を繰り返していた。
奇しくも前述の医師の『警告』通り、10年後の1996年にこの世を去る結果となった。