西村 修(にしむら おさむ)プロフィール

生年月日 1971年9月23日
出生地 東京都文京区
没年月日 2025年2月28日(53歳没)
死没地 東京都
現職 プロレスラー
食育指導
所属政党 (国民新党→)無所属
経歴

錦城学園高等学校
1971年9月23日に東京都文京区で誕生したに西村さん。
千代田区の神田にある私立錦城学園高等学校在学中に新日本プロレス学校に入門され卒業後の1990年4月に新日本プロレス入門されました。
※因みに錦城学園は、今でこそ偏差値50でブレザーの男女共学ですが、当時は偏差値40でほぼ合格のヤンキーばかり男子高校でした💦(中ランやドカンの学ラン高校)
何故なら私の母校でもありましたからw
デビュー戦

若い頃の西村さん
1991年4月21日に沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之選手戦でデビューされています。
結果は7分41秒、逆エビ固めに敗れました。
ヤングライオン杯
1993年3月に行われた第4回ヤングライオン杯に準優勝されています。(因みに優勝は山本広吉選手)
その後同年8月に米国武者修行に出発。ただ1994年に新日本プロレスから帰国命令が出たが拒否した為、、新日本プロレスからの送金がストップされています。(1994年10月10日に帰国)
新日本プロレスを退団

2006年1月24日に新日本プロレスを退団されました。
理由は「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言されています。
政治家へ

2010年3月21日、全日本プロレスでの試合後に挨拶を行い政治家への転身のためプロレスを休業することを発表しています。
実際はフリーランスとして議会とのスケジュールを調整しながら団体問わずスポット参戦されていました。
体調不良

2024年に入ると体調不良が続き月になってPET診断、内視鏡検査、生検によってがんと確定。
食道がん(扁平上皮がん)から左側上半身全体に転移しており、ステージIVと診断されました。
お亡くなり・・・。

2025年1月中旬に体調不良を訴え、同月30日に緊急入院した西村さん脳腫瘍が転移しており、さらに抗がん剤の副作用のなどで容態が悪化しプロレスの試合も全てキャンセルし療養生活をされていましたが2025年2月28日、東京都内の病院でお亡くなりになりました。53歳没。
本人の強い希望により近く退院を予定していたが、容態が急変したとされています。
生前最後の試合

2024年12月8日FMWE・鶴見青果市場大会で「ノーロープ有刺鉄線+ジャイアント電流爆破バットデスマッチ」に出場。
竹村豪氏、青木真也氏と「無我軍」を組んで、大仁田&雷神矢口&マンモス佐々木組と対戦。
術後41日しかたっていない中での復帰であったが出場し、結果的に生前最後の試合出場となった・・・。
最後に・・・。

西村修さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
おすすめ記事
マイク・パフォーマンスと言えばこの方『ラッシャー木村』の生涯!!
【追悼】日本の女子プロレス史上、初めて試合中の事故で死去した!『プラム麻里子』!!
ブッチャーじゃないよ 💦流血大王『キラー・トーア・カマタ』って覚えてる?!