中田英寿 プロフィール
小学3年生(8歳)のときに兄の影響でサッカーを始めるが、当時は野球漫画とサッカー漫画を読んでいて、どちらへ行こうか悩んでいたそうです。
サッカーを選んだ決めては『キャプテン翼』
「翼君がいなかったら僕は野球をやっていました」と語られています。
甲府市立北中学校3年生のとき、フィジカル面の強さを評価されU-15(15歳以下日本代表)に選抜。当時はFWとして登録されていました。
U-16アジアユースに選出されて以降 全ての年代別日本代表に選出される。
韮崎高校2年時 「第72回全国高等学校サッカー選手権大会」に出場。
Jリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち11クラブからオファーを受け、
1995年 ベルマーレ平塚に加入。
入団交渉時から「海外留学、将来の海外移籍を認める」という条件が提示されていて、中田さんが早くから海外を意識されていたことがわかります。
韮崎高校時代には「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と、資格取得にもチャレンジし、語学の勉強も高校時代からされていたようです。
今では海外移籍は当たり前のように行われ、会見で移籍先の言葉を使って話す選手は多くなりましたが、当時はビックリしたのと同時に「中田らしいな!」と感じたのを覚えています。
中田英寿 選手時代の主な経歴
| 歴代所属チーム | ベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ):日本 |
| A.Cペルージャ:イタリア | |
| A.Sローマ:イタリア | |
| パルマA.C:イタリア | |
| ボローニャF.C:イタリア | |
| ACFフィオレンティーナ:イタリ | |
| ボルトン・ワンダラーズF.C:イギリス |
| 主な日本代表歴 | 1992年 U-16アジアユース |
| 1993年 U-17アジアユース(Best 8) | |
| 1994年 U-19アジアユース | |
| 1995年 ワールドユース(Best 8) | |
| 1996年 アトランタ五輪 | |
| 1998年 フランスW杯 | |
| 2000年 シドニー五輪 | |
| 2001年 コンフェデレーションズカップ(準優勝) | |
| 2002年 日韓W杯(Best 16) | |
| 2003年 コンフェデレーションズカップ | |
| 2005年 コンフェデレーションズカップ | |
| 2006年 ドイツW杯 |
| 受賞歴 | 1997年 リーグベスト11 |
| 1997年 AFC年間最優秀選手賞 | |
| 1997年 日本プロスポーツ大賞(内閣総理大臣杯授与)大賞 | |
| 1998年 AFC年間最優秀選手賞 | |
| 1998年 日本プロスポーツ大賞(内閣総理大臣杯授与)殊勲賞 | |
| 00-01 セリエA 優勝(スクデッド) | |
| 01-02 イタリア杯 優勝 | |
| 2006年 イタリア連帯の星勲章受賞 | |
| 2006年 カヴァリエーレ勲位 |
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中田英寿 旅人~知れば知るほどのめり込む日本文化
好きなサッカーを楽しめなくなったからと現役引退を決めた中田さん。(実は自分の中では当初 復帰する可能性もあったそうです。)
中田さんにとって、「楽しく生きていくこと、自分がどうあれば幸せかが一番重要」
そんな中田さんが次に向かった先は、『世界』
世界中を旅する中で、日本人なのに「日本」のことをよく知らない自分を気づかされ、2009年から6年半かけて日本全国 47都道府県を車で旅されました。
「地方それぞれに住む人達の生活を見ることで、日本を勉強することになるのではないか。」と考え、「伝統工芸」「農業」「お酒」「お寺や神社」を巡ることと、良い宿や良いレストランを知るということをテーマに先ず沖縄から旅をスタートされたそうです。
旅を始めた頃は知識も情報量も少なく、取りあえず自分の感覚だけを頼りに動いていた事が「知れば知るほどのめり込む」
旅が進むにつれ情報量が増え、それぞれの業界との関わりが深くなっていった中田さん、自分の中で形が作られていきます。
「日本文化や技術の素晴らしさを世界に伝える」
NIHONMONO - 「にほん」の「ほんもの」を巡る旅マガジン
中田英寿 やりたいこと=仕事 複数の肩書きを持つ実業家
・株式会社「JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」代表取締役
・一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事
・国際サッカー評議会(IFAB)諮問委員
・観光庁「アドバイザリー・ボード」メンバー
・株式会社「デサントゴルフ」アンバサダー
・三菱UFJ信託銀行の情報銀行サービス「Dprime」アンバサダー