范 文雀(はん ぶんじゃく)プロフィール

本名 范 文雀
別名義 ハン・ザ・摩耶
生年月日 1948年4月15日
没年月日 2002年11月5日(54歳没)
出生地 東京都中野区
出身地 広島県広島市
死没地 東京都
血液型 O型
経歴

ノートルダム清心中学校
1948年4月15日に東京都中野区で一男一女の長女として誕生した范さん。
ご両親も台湾人でしたが、両親ともに日本育ちだったた為、中国語ができなかったそうです。
広島ノートルダム清心中学校を経て、清泉女子大学英文別科卒業(1969年)、上智大学外国語学部比較文化学科中退(1970年)。
デビューは?

范さんは、大学在学中の1968年にテレビ番組『特別機動捜査隊』(テレビ朝日)に端役で出演し女優デビューされました。

因みに『特別機動捜査隊』は、1961年(昭和36年)10月11日から1977年3月30日まで15年半放送された刑事ドラマ番組で全801話。60分刑事ドラマでは最多放送回数を誇っている刑事ドラマでした。
更に、1969年 ~ 1970年と1972年ドラマ「プレイガール」 ユーミン・ダロワ役で活躍。
「サインはV」でブレイク
1970年には、TBSの『サインはV』にエリザベス・サンダースホーム(児童養護施設)で育てられた悲運の混血アタッカー「ジュン・サンダース」役に大抜擢され、たちまちブレイクされました。
繊細な心を持ちながら、表面的には突っ張った部分を持つジュンの役柄は多くの視聴者の共感を呼び、ドラマでは、范さんは、志(こころざし)半ばで「骨肉腫」で倒れるのですが、全国のファンから「助命嘆願」の手紙が数多く届くほど人気を博したそうです。
因みに、『サインはV』では、ドーランで肌を黒く見せていたとか・・・。
続く、テレビドラマ「アテンションプリーズ」で、主人公の親友で、客室乗務員の田村早苗役を演じられると、范さんの人気は不動のものとなったのです。
結婚やお子さんは?
人気絶頂期の1973年には、『2丁目3番地』(日本テレビ)で共演した寺尾聰さんと結婚され芸能界を引退されました。
因みにお2人は、マスコミ関係者にノーマークで、結婚後にマスコミにキャッチされ、翌月に、石原裕次郎さん・まき子夫妻を仲人に、結婚式を挙げられたそうです。
しかし、そんなお2人も、翌年の1974年11月には、早くも離婚されてしまいました。(お子さんはいらっしゃいませんでした)
ドル箱女優と隠密結婚も…寺尾聰はインタビューで「そうね、話すことないね」:イザ!
離婚の理由
寺尾聡さん

11月15日に離婚会見を別々に開かれ、寺尾さんは、離婚の理由について「石原夫妻を見て、男としてああいう家庭をつくりたいと思った。僕なりに一生懸命、仕事をしたんだけど、朝から晩まで家にいない状態になってしまった。いい方向に進むつもりが、結果としてよくなかった。」沈痛な面持ちで語られました。
范文雀さん

寺尾さんが退席してしばらくしてから、范さんが現れると、離婚の理由については、「性格の不一致というか、最初から相いれない部分があったのかも。」と、けむに巻くような説明で終わりました。
芸能界復帰
離婚後芸能界に復帰した范さん。
エキゾチックな風貌と演技力が評価され、梶芽衣子主演の映画『野良猫ロック』シリーズを始め、『服部半蔵 影の軍団』『プレイガール』『Gメン'75』などの人気テレビシリーズや、『リア王』『夏の夜の夢』『鹿鳴館異聞』などの数多くの舞台にも出演されています。
病気に・・・。

人体におけるリンパ系 リンパ節は小さな黒丸で示されている
復帰後も数々の人気ドラマで活躍していた范さんですが、1998年頃、腋のリンパ節から悪性リンパ腫との診断を受け半年間に及ぶ入院治療などによって小康が得られていました。
お亡くなりに

2002年)10月中旬から体調が悪化され11月5日午後1時38分、入院中だった東京都内の病院で死去されました。満54歳没。死因は心不全だったそうです。
最後に・・・。

范さんの名前「文雀」は本名で、「くじゃくのように美しくなるように」とのことだったそうです。
范さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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