アイルトン・セナ
「音速の貴公子」アイルトン・セナ
時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。
母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。イギリス「F1 Racing」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出された。
セナの生涯を振り返る
1960年、ブラジル・サンパウロの裕福な家庭に生まれる。本名はアイルトン・セナ・ダ・シルバ。
幼いころからエンジン付きカートを与えられ、才能を磨いていった。
1984年、トールマン・ハートよりF1デビュー。弱小チームでありながらもデビュー2戦目の南アフリカGPで6位となりいきなりのポイントゲット。さらに6戦目のモナコGPでは豪雨により他のドライバーが苦戦する中、セナのマシンは次々に強豪を追い抜いていきトップのアラン・プロストを追い抜くもその直前に中断され、2位となる。
しかし、このレースでセナに対する注目が集まる。
1985年にはロータスに移籍。第2戦ポルトガルGPにて初のポールポジション、そして初優勝を飾る。
さらに第13戦ベルギーGPでも予選2位からの優勝をし、この年は2勝という結果になった。
以後、セナは着実に力を着け、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケら当時のトップドライバーと肩を並べるようになる。
翌1986年もロータス・ルノーを操り、2勝を果たした。特に第2戦スペインGPではウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルの激しい追撃を振り切り0.014秒差で勝利し、セナはホンダエンジンに興味を持つようになる。
また、1987年にはロータスで中嶋悟とチームメイトになり、さらに念願のホンダからのエンジン供給を受けた。
あまりにも早い死だった「天才」アイルトン・セナ
1988年、マクラーレンに移籍。この年マクラーレンは、強力なホンダエンジン、そしてアイルトン・セナ、アラン・プロストのジョイントナンバーワン体制によってシーズン16戦15勝を挙げる。そしてセナも第15戦日本GPにて初のワールドチャンピオンに輝く。
90年、フェラーリに移籍したプロストに代わりゲルハルト・ベルガーとコンビを組む。この年もプロストとチャンピオンの座を争う。そして、またしても第15戦日本GP、スタート直後、1コーナーでセナはプロストと接触、これによりセナの2度目のワールドチャンピオンが決まる。
91年はウィリアムズのナイジェル・マンセルとのチャンピオン争いを制し、3度目のワールドチャンピオンを経験する。しかし、翌92年はウィリアムズに圧倒される。セナは随所で輝きを見せたが、結局ランキング4位となる。
93年、ホンダエンジンを失い、非力なフォードエンジンで戦うことになったセナだが、序盤から前評判を覆す活躍を見せる。結局中盤で失速し、ウィリアムズのアラン・プロストにチャンピオンを奪われるが、終盤2戦連続で優勝するなど意地を見せる。この年ランキング2位。
94年、念願のウィリアムズに移籍、しかしレギュレーションの変更でハイテク装備が禁止されたためマシンのバランスが不安定になり、セナは序盤の2戦でポールポジションを取りながらリタイヤ。精彩を欠く。
そして、1994年5月1日、第3戦サンマリノGP、イモラサーキットのタンブレロでクラッシュ、病院に搬送されるが、死亡する。
その後、ブラジル政府が国葬の礼をもってあたったことからもセナのブラジル国内での人気がうかがい知れる。
伝説の「セナ足」
セナのスーパーラップ「1989鈴鹿GP」
名勝負:セナVSマンセル「1992モナコGP」
こちらは「セナVSプロスト」
セナといえば「生ダラ」でとんねるずとのカート対決もありました
セナのライバル達
ネルソン・ピケ
ナイジェル・マンセル
アラン・プロスト
ミハエル・シューマッハ
2010年にはセナを偲んだ映画が公開
F1となれば必ずこのサウンドでした
【T-SQUARE】F1テーマ曲と言えば”TRUTH”!! | Middle Edge(ミドルエッジ)
人気絶頂期90年代のF1レーサーたち
人気絶頂期90年代のF1レーサー【世界のアイルトン・セナから日本の中嶋悟まで人気を誇った名レーサーたち】 - Middle Edge(ミドルエッジ)