国際的なスターとして活躍したジュディ・オングさん
ジュディ・オングさんのプロフィール
ジュディ・オングさんの経歴
1950年、台湾の台北市で翁家の長女として生を受けたジュディ・オングさん。父親がアメリカ軍GHQの報道工作の仕事をしていた関係で、幼いころから訪日し、東京で暮らすようになります。
小学校は東京中華学校に通って、中国の標準語である北京語を勉強し、家庭では母国語である台湾語で会話していたそうです。
勉学に励む一方、芸能界でも子役として活動し、1961年には日米合作の映画『大津波』に出演されています。以降も日本国内で放送されるテレビドラマでも出演を重ねています。
この頃に出演した映画もテレビドラマも続々と人気を博し、スターとしのて確固たる立場を確立されました。台湾でも1968年に映画『小翠』に出演し、東南アジアの中華圏に活動の場を広げています。
1972年、日中の国交正常化に伴ない、ジュディ・オングさんは日本に帰化されています。
1973年には日本コロムビアからCBS・ソニーに移籍。
1975年にリリースした『愛は生命』は、TBS系で放送されたドラマ『赤い殺意』の主題歌になってヒットしました。
この楽曲のヒットを受け、日本レコード大賞を獲得。そして、その年のNHK紅白歌合戦にも初出場して歌手としての知名度も高めています。
1985年には東芝EMIに移籍。その直後、映画『ひとひらの雪』の主題歌を歌い、同名タイトルのその楽曲はヒットしています。その年内にはNHKドラマ『おしん』が香港で放送され、ジュディ・オングさんが歌ったオリジナル主題歌『信』は東南アジア全域でブレイクしました。
その後、2004年にはビクターエンターテイメントに移籍し、『魅せられて』のリメイク版を発売しています。現在も世界を股にかけて活躍しており、年齢的には70歳を迎えているのに、その美貌を保っているから驚きです。
ジュディ・オングさんにまつわるエピソード
俳優・歌手の寺尾聡さんとの交際
寺尾聡さんはジュディ・オングさんに芸能界から退き、家庭に入ることを望んだのだとか。
ジュディ・オングさんはその希望を受け入れられず、結果的には、お二人は破局を迎えています。その後の活躍ぶりを考えると、人生の分岐点だったことは間違いないですね。
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版画家としての才能も発揮
こちらの分野においても数々の受賞歴があり、アーティストとしての非凡さも伺えます。美術団体・白日会の正会員となり、2005年にはジュディ・オングさんの作品は平等院鳳凰堂にも奉納されました。
1992年に美術商の一般男性と結婚
ジュディ・オングさん自身、版画家としても有名なので、そういった芸術活動を通じての出会いだったのかもしれませんね。
しかし、結婚生活は長続きせず、残念ながら1997年には離婚されています。お互い仕事が多忙だったため、すれ違いによって生じた隙間を埋めることができなかったようです。
ペットロス症候群に苦しめられた
愛犬パールを家族として迎え入れ、その日からパールを溺愛したジュディ・オングさん。子供もいなかった彼女にとって、死んでしまったときの喪失感は想像以上のものだったのでしょう。
症状はなかなか良くならなかったそうですが、新しい家族・アイリスを迎えたことでペットロス症候群から抜け出せたとお話しされていました。
ジュディ・オングさんの代表作品
映画
『青春ア・ゴーゴー』
内容&あらすじ
『極道VS不良番長』
内容&あらすじ
『アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗』
内容&あらすじ
テレビドラマ
内容&あらすじ
内容&あらすじ
内容&あらすじ
シングル
最近のジュディ・オングさんの活動ぶり
国際的に活躍するスターとして、さらには芸術家としても健在のジュディ・オングさん。その輝きは現在も失われていません。テレビ出演にも積極的で、その活動や予定は彼女の公式ホームページで確認することが可能です。
ジュディ・オング公式サイト | JudyOngg Official site
FacebookやTwitterなどのSNSも発信しているようなので、そちらもチェックしておきたいところですね。普段の生活ぶりや日常が小まめに更新されていますので、ファンには堪らない情報が詰まっています。
今後もまだまだ私たちを楽しませてくれるでしょう。これからの彼女の動向も見逃せないです。さらなる飛躍を祈って、今回の記事を締め括りたいと思います。最後まで記事を読んでくださって、ありがとうございました。また気になる有名人を記事にしていきますので、また別の記事でお会いできたら嬉しいです。