独裁者と呼ばれた球界のドン・渡邉恒雄さん
渡邉恒雄さんのプロフィール
渡邉恒雄さんの略歴
生い立ち
1926年、現在の東京都杉並区で5人兄弟の三番目・長男として生まれ育った渡邉恒雄さん。父親は銀行員でしたが、1934年、渡邉恒雄さんが8歳の時に胃ガンで死去。しかし、11軒もの貸家を所有していたため、家賃収入があり、当面の間は生活費に困るといった事態は避けられました。それでも稼ぎ手・大黒柱を失なったという事実は、一家に大きな不安を与えたといいます。
中学受験は第三志望まで逃してしまい、第四志望の開成中学校にギリギリの成績で入学。こうした事態に、母親は親類の前で「情けない」と泣いたといいます。1943年には開成中学校を卒業して、東京高等学校に進学。1945年には現在の東京大学にあたる東京帝国大学の文学部哲学科に入学しました。しかし、太平洋戦争の徴兵で、近衛師団に配属されます。
終戦と共に学生としての生活を取り戻した渡邉恒雄さん。大学在学中、共産党への入党を申し込みました。当初は入党が許されませんでしたが、日本青年共産同盟に加入し、ビラ貼りや講演会の勧誘といった活動を経て、1947年頃にようやく正式な共産党の党員として認められるようになりました。他大学に出向いて演説を行なうといった活動も行ないましたが、その年のうちに離党届を提出して共産党から離れていったそうです。
読売新聞社に入社
次第に大野伴睦さんは渡邉恒雄さんに信頼を寄せるようになり、自民党総裁や議員議長といったポストの獲得交渉の代行や、ゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆といった仕事を依頼するようになりました。
議員時代の中曽根康弘さんとも親密な関係を築き、1982年の自民党総裁選のときには中曽根康弘さんを擁立するための根回しにも尽力しています。
1977年、編集局総務に局長待遇で就任。1981年に取締役論説委員長となり、1991年には読売新聞社の社長まで登り詰めました。当時、国民世論の多くは日本国憲法改正に否定的な考えを示していましたが、読売新聞は改憲キャンペーンを展開し、触れることが許されなかった改憲議論に一石を投じます。その後に行なわれる世論調査においては、憲法改正の賛成が反対を上回るといった結果も見られるようになりました。
近年の活動について
渡邉恒雄さんは政界における影響力は健在だったこともあり、当時のねじれ国会を解消しようと、元内閣総理大臣の中曽根康弘さんと共に、自民党・民主党の二大政党による大連立構想を打ち立てました。一時、党主の間では合意に至りましたが、民主党内での反発が強く、結果的に構想は実を結びませんでした。
2018年には死亡説が流れましたが、渡邉恒雄さん本人がそれを否定しました。
渡邉恒雄さんのスポーツに与えた影響
読売ジャイアンツでの活動
1996年には球団のオーナーに就任すると、野球のことを学び、球団の人気や資金力・影響力といったものを背景に球界に君臨。その影響力の強さは、コミッショナーの人事すらも決める人物とも言われていたほどです。
2004年、パ・リーグの人気低迷から近鉄バッファローズとオリックス・ブルーウェーブに合併の話が持ち上がり、福岡ダイエーホークスと西部ライオンズは親会社の経営危機から身売りの話が飛び出します。この問題の解決するためとして、渡邉恒雄さんは日本プロ野球を1リーグ制にしようと画策していました。
当時、日本プロ野球選手会会長だった古田敦也さんが経営者側との会談を拒否したことを記者に問われると、「無礼なこと言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」と発言したことが報じられ、選手や全国の野球ファンから猛反発を受ける事態に陥ります。
その後も日本プロ野球選手会と経営者サイドの対立は激化し、とうとう日本プロ野球では初のストライキが決行されました。これによって経営サイドが折れる形となって、2リーグ制が維持されることとなります。
その1年後に渡邉恒雄さんは球団会長に返り咲き、その後は肩書きを変えながらも、球団の実質的なトップとして君臨しました。