まずはお聴き下さい、八代亜紀で「舟唄」
年を重ねるにつれ沁みわたるように心に響く名曲です
八代亜紀
芸名は出身地の八代市から
幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ。そうした影響もあり、八代は歌好きの子供になり、地元の歌唱コンクールなどにも出場していた。
八代が小学5年生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられる。もともと自身もハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するように。
中学卒業後、地元熊本でバスガイドとして勤務していたが、15歳で父親の反対を押し切り上京。銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った。
ちなみにこちらはジュリー・ロンドンの「Fly Me To The Moon」(1964)
多くの歌手がカバーした名曲ですが、エヴァンゲリオンでも登場しましたね
1971年、テイチクよりデビュー
1971年、テイチクより「愛は死んでも」でデビュー。読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場、10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンに輝く。
1973年の「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。その後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」他、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発。
哀憐三部作とされた「舟唄」「雨の慕情」「港町絶唱」で演歌の女王へと駆け上がる
1979年には新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒット。
1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞。これら2曲は「港町絶唱」と共に「哀憐三部作」とされる。
演歌歌手にしては稀な連続ヒットと国民的ヒット曲により、女性演歌歌手として不動の地位を築き、“演歌の女王”と称された。
女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップ
演歌の女王と称される
アルバムもまた好セールスを記録しているため、オリコンの総合アルバム・チャートには5作品をトップ10に送り込み、演歌歌手としては氷川きよし、五木ひろし、森進一に次ぐ第4位の記録。
多方面での活躍
トラック野郎の女神、と称されます
「なみだ恋」の大ヒットで絶大な支持を得ることに
1977年には当時大ヒットを飛ばしていた東映映画『トラック野郎・度胸一番星』に女ダンプ運転手「紅弁天」役で出演し、八代の曲「恋歌」が挿入歌として起用された。配給収入も10億9000万円を記録。
『トラック野郎・度胸一番星』男一匹、菅原文太。シリーズ唯一恋が実るが… - Middle Edge(ミドルエッジ)
歌手活動だけに留まらず、画家としてもフランスの「ル・サロン」展に5年連続入選、日本の芸能人として初の正会員になるなど活躍。
1994年、ペルー共和国のラ・メルセにヤシロアキ工業技術学校を設立。ペルー元大統領アルベルト・フジモリの両親が熊本県出身ということで、以前からフジモリを支援しつつ、ペルーに対するボランティア活動も行っていた。
ボランティア活動の一環として、1981年より女子刑務所の慰問公演を続けている。2000年、日本全国すべての女子刑務所を訪問した。
八代亜紀のエピソード
「決して厚化粧ではない」「実はお酒が呑めない」 など
バラエティなどにも理解のあるノリの良さ
「誰も知らない素顔の八代亜紀~」に代表される、替え唄メドレーが大ヒットだった嘉門達夫。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
 
     
     
            




