爆風スランプ
爆風スランプ
活動の歴史
聖飢魔Ⅱ、米米CLUBと合わせて「ソニー三大色物バンド」と呼ばれていた
デビュー前後
当初はユニークな歌詞やライブで客席に消火器をばら撒いたり、スイカを投げたり、頭の上に花火を置いたりするなど過激なパフォーマンスをしていたため、“コミックバンド”という見方をされていた。
そのため、デビュー当時は同じソニー系列のレコード会社に所属していた聖飢魔II、米米CLUBと合わせて「ソニー三大色物バンド」と呼ばれていたこともあった。
1985年6月に夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たすが、オープニングトークで頭の上に火を付けたり、スタジオ内を歩き回り出演者やオーケストラ演奏者と握手したり、花火を口にくわえたり大暴れ。その後も同番組に出演した際は、THE ALFEEのセットを壊したり、テレビカメラの上に乗ったりと大暴れし続ける。 この数日後にザ・ベストテンにスポットライトで出演した際も、スタジオ内を暴れまわる。
1985年12月13日に、日本武道館での初ライブを果たす。サンプラザ中野は、自分たちが武道館を満席に出来るわけがないと思っていた。そこから発想して「武道館に空席があるのは、ペンフレンドの女の子を誘ったが来てくれなかったから」、という言い訳ソングが作られた。後に彼らの代表作の1つとして評価されることとなる「大きな玉ねぎの下で」である。 その後は強力なリズムセクションを擁した実力派バンドとして徐々に認められていくことに。
去っていく仲間を投影した「Runner」がヒット
Runnerのヒット
NHK総合の音楽番組『ジャストポップアップ』にて「Runner」を演奏したところリクエストが殺到。これがきっかけで、1988年の『第39回NHK紅白歌合戦』にも出場を果たし、翌年(1989年)1月9日の二度目の武道館公演を行った。そして江川はこの公演を最後に去っていく。
『天才・たけしの元気が出るテレビ』の挿入歌に使用された「Runner」は、初のビッグヒットとなった。カラオケでもノリのいい曲として脚光を浴び、また現在でも高校野球のブラスバンドの応援歌における定番曲としても定着。
その後、兄弟バンド的な存在だったTOPSのベーシストだった和佐田達彦(バーベQ和佐田)が正式メンバーとして加わった。
ちなみに、同時期に活躍した聖飢魔IIやTOPSとは親交が深かったこともあり、共同でライブを行ったり、TOPSのボーカルの三井雅弘はTOPS解散後、爆風スランプのマネージャーに就いたりもした。プリンセス・プリンセスとは、中野が住んでいたアパートにプリンセス・プリンセスのプロデューサーが住んでいたこともあり、よく一緒に酒を飲んでいて、プリンセス・プリンセスはこの時、「私達、本当に売れたいんです。」と話していたという。
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各メンバーが海外で長期休暇
ヒット曲の連発〜長期休養
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低迷期・ソロ活動
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猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク応援曲「旅人よ〜The Longest Journey」がヒット
電波少年とのタイアップ
活動休止
アルバム『ハードボイルド』を発表した翌年、1999年4月に活動休止を発表。