カルメン・マキ「時には母のない子のように」
衝撃的な曲名「時には母のない子のように」とハーフのカルメン・マキ。
寺山修司が作詞した独自の世界観が漂う曲は大ヒットしました。
1969年2月21日に歌手デビューしたカルメン・マキは、デビュー曲の「時には母のない子のように」が大ヒットして第20回NHK紅白歌合戦への出場を果たします。
その後、「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」などの6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースします。
戦後と昭和 カルメン・マキの時代
時には母のない子のように カルメン・マキ 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索
日本が連合国軍占領下であった1945年9月2日から1952年4月27日までの間に生まれたアメリカ軍などの占領軍兵士と日本人女性との間に生まれた混血児は、GIベビーと呼ばれていました。
強姦や売春によっ妊娠して生まれ、見捨てられた児童達もいました。
戦後になると、混血児は「あいのこ」とよばれ、育児放棄や放棄されるなど差別を受けました。
1953年に混血児専門の孤児院(児童養護施設)「エリザベス・サンダー. ス・ホーム」が設立されました。
1969年(昭和44年)は、佐藤首相が訪米し日米首脳会談が行われました。佐藤・ニクソン共同声明で47年に沖縄返還を表明。
1971年(昭和46年)に沖縄返還協定調印。
日米首脳会談から 3年後の1972年(昭和47年)5月15日に沖縄は日本へ復帰しました。
演歌歌手の藤圭子はカルメン・マキと同じ 1951年生まれ。
そして二人がデビューしたのも同じ1969年。
藤圭子は、カルメン・マキがデビューした半年後の9月25日「新宿の女」でデビューしています。
二人に共通するのは、運命を背負う暗いテーマの曲を歌う、17歳の美少女だということです。
「時には母のない子のように」は、アメリカ人の父を持つ混血のカルメン・マキが歌ったからこそヒットしたのではないでしょうか。
カルメン・マキのヌード『篠山紀信集 NUDE』写真集
1970年 カルメン・マキは、ロックに転向
1970年代ニューロック『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』