「クレージーキャッツ」の正式名称は「ハナ肇とクレージーキャッツ」!!
若かりし頃の「ハナ肇とクレージーキャッツ」
1955年にハナ肇(本名:野々山定夫)をリーダーとして渡辺プロダクション所属の最初のグループ「キューバンキャッツ」としてデビューした。当時は米軍進駐軍のキャンプでジャズを演奏していたが、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが大受けし、“You, crazy!”と言われたことからバンド名を「クレージーキャッツ」に改名したという。
実はクレージーキャッツの原型と言われるバンドが存在した!!
その名は「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」!!
冗談音楽の王様と呼ばれた「スパイク・ジョーンズ&ザ・シティ・スリッカーズ」のコピーバンドとして始まったが、リーダーだったフランキー堺が日活の専属となって俳優に転じ、バンドのことなんか放ったらかしとなり、1959年頃に解散してしまう。だが、それも上質の演奏による笑いであったし、全てがクレージーキャッツへと受け継がれていった。勿論、このバンドが存続していたとすれば、”元祖コミックバンド”の名称をほしいままにしていたのであろうが、結果的にクレージーキャッツが引き継ぐ形で”元祖コミックバンド”の名称をも継承してしまったのである。フランキーさん!!おしかったですね!!
では、「クレージーキャッツ」のメンバーの紹介!!
リーダー、兼、”叩かれ役”だった、「ハナ肇」
1930年2月9日~1993年9月10日。コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーとして知られるコメディアン、俳優。同バンドのドラマーでもある。本名は野々山定夫。1955年、クレージーキャッツの前身となる「キューバンキャッツ」を結成、のち盟友となる植木等や谷啓らが加わり、1957年にクレージーキャッツが誕生した。ハナの代表ギャグで流行語にもなった「アッと驚く為五郎」はバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』のなかで、ヒッピー姿のハナが叫んだセリフ。また、『新春かくし芸大会』で見せた銅像姿は同番組の名物ともなった。俳優としても活躍し、ブルーリボン主演男優賞などの賞を受賞した『なつかしい風来坊』『会社物語 MEMORIES OF YOU』をはじめ、『ニッポン無責任時代』などのいわゆる「東宝クレージー映画」、『馬鹿が戦車でやって来る』など数多くの映画やテレビドラマに出演した。1991年には紫綬褒章を受章。それから2年後の1993年9月10日、肝臓がんで他界した。
ハナ肇の代表的コント「銅像コント」
クレージーキャッツの中で一番タレント性があった「植木等」
1926年12月25日~2007年3月27日。高度経済成長時代の昭和を代表したコメディアン。俳優、歌手、ギタリストとしても活躍した。植木演じる破天荒なキャラクターの「無責任男」を主役にした『無責任シリーズ』は大ヒット、国民的スターとして人気を博した。また、歌手として谷啓らのいるクレイジーキャッツに参加、「わかっちゃいるけどやめられない」のフレーズで知られる「スーダラ節」は昭和を代表する流行ソングとなり、NHK紅白歌合戦にも5度出場している。コメディアン、歌手として不動の人気を誇った植木は、その後、性格俳優へと転身、黒澤明監督の『乱』や木下恵介監督の『新・喜びも悲しみも幾歳月』などに出演、『新・喜びも悲しみも幾歳月』では日本アカデミー賞助演男優賞を受賞した。晩年は肺気腫と前立腺がんを患っていたが仕事への情熱は衰えず活動を続けた。そして、2007年3月27日、呼吸不全のため他界。遺作となったのは映画『『舞妓Haaaan!!!』での西陣の社長・斉藤老人役であった。
こりゃまた失礼しました。!!!ドン !! - YouTube
芸名が米国の有名コメディアンの”ダニー・ケー”をもじった「谷啓」
1932年2月22日~2010年9月11日。「ガチョーン」「びろーん」「ムヒョー」などのギャグで人気者となったコメディアン。本名は渡部奏雄(やすお)。ちなみに芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。また、ボーカル、トロンボーン奏者としてハナ肇率いるバンド「クレイジー・キャッツ」に参加、メンバーが出演した喜劇映画は「クレイジー映画」というジャンルで呼ばれ一世を風靡した。俳優としても多数の映画やテレビドラマ、舞台に出演、味のある演技を見せた。しかし2008年頃から体調を崩すようになり療養生活に入るも、晩年は認知症の症状がみられていた。そして2010年9月10日、自宅階段から転落、翌日、脳挫傷のため急逝した。
元はマージャン時の掛け声だった?!
谷曰く『マージャンをやっていて、調子がよくなるとパイを引きながら「ビローン」「ムヒョー」「クチョッ」とかけ声をかける。決して同じ言葉を使わないことにしていた。そしてツモってほしいときには、ひときわ厳かに、「ガチョーン」といいながらパイを引いてきたらホントにツモった、それ以来「ガチョーン」を番組にもっていったのだと思う。ま、いわせてもらうならガチョーンの極意は「万物生きとし生けるものすべてを引きずり込み、一瞬、真空状態にしてガチョーンと引き抜くとバランスが崩れて周りの人たちが皆なだれ落ちる」---という深いギャグなのである。』
現在、クレージキャッツのメンバー中で唯一、生存しているメンバー「犬塚宏(いぬづか ひろし)」
1929年3月23日~ 現在、クレージキャッツのメンバー中で唯一、生存しているメンバー。クレイジーキャッツのベーシスト、犬塚弘は1929年、東京生まれ、中学時代に仲間とハワイアンバンドを組んだのが音楽の道への第一歩となった。戦後の経済成長期のクレイジーキャッツでの大活躍を経て、「自分の人生を自分で切り開きたい」と舞台俳優の世界に飛び込んだのはなんと57歳のときであった。ミュージシャンとしてだけでなく、俳優としても地位を確立し、80歳を過ぎた現在でも精力的に活動を続けている。
”おかま”じゃないけど女性っぽかった「桜井センリ」
1926年3月20日(公称は1930年3月20日)~2012年11月10日。公式プロフィール上では1930年生まれとなっているが、実際は1926年生まれ。これはクレイジー・キャッツの他のメンバーとバランスをとるためだといわれている(最年少の安田伸は1932年生まれ)。
1960年(昭和35年)に植木の紹介でジャズバンド「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」に参加。結核のため療養中だった石橋エータローの穴を埋めるべく、約1年間、石橋の代役を務める。石橋復帰後は植木などから「脱退させるべき」との意見が出たが、「せっかく仲間になったんだから」とリーダーであるハナ肇が他のメンバーを説得し正式加入。石橋が脱退する1971年まで、クレイジー・キャッツは、ピアニストが2人という変則的な形をとり、「連弾」というスタイルを生かしたコントも行うようになる(その後も石橋はクレイジーに度々客演しており、連弾は定番となる)。
「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系)などの番組にクレージーのメンバーとともに出演。女形の「ひなこ」さんや、殺虫剤のCMでおばあさんに扮装した「センリ婆さん」のキャラクターはつとに有名で、殺虫剤を逆さに持って「ルーチョンキ」「アタシって駄目ね~!」のセリフは流行語に。コメディー冠番組「センリばあさんのクレージー大変記」(テレビ朝日系)が放送されたほどだった。2012年(平成24年)11月11日、東京都新宿区の自宅で死亡しているのを発見された。病気による『孤独死』として報道される。
音楽的センスは超一流だった「安田伸(やすだ しん)」
1932年9月19日~1996年11月5日。1951年、東京藝術大学管楽器科に進むが、クラシック音楽の世界の封建性になじめず、また高額の月謝を払い続けることに対する経済的困難もあり、米軍進駐軍クラブでジャズマンとしてアルバイトを始める。
やがて東京藝術大学に別科器学科が創設されるとそちらに移り、1953年に修了。以後は横浜や横須賀や上野などを拠点にジャズマンとして活動し、1957年秋、石橋エータローの紹介でハナ肇とクレージーキャッツに参加。ドラッグに溺れて脱退した石田正弘の後任としてテナーサックス(ときおりクラリネット)を担当した。真面目な性格で、メンバーの中で唯一『おとなの漫画』全1835回に出演した。また、『シャボン玉ホリデー』ではなべおさみと組んだコント、「キントト映画の助監督」役で知られ、監督役のなべに「ヤスダー!」と怒鳴られ続け、メガホンで頭を殴られ続けながらも理不尽な命令に黙々と従い、最後には立場が逆転する役柄を演じている。また、ブリッジをしながらサックスを吹き鳴らす演奏法も有名で、舞台や一部のクレージー映画などで披露している。作曲家としても活躍しており、『週刊クレージー』のテーマ曲を始めドラマの主題歌、劇伴や企業の社歌、団体歌、体操の伴奏曲など数多くの曲を作曲した。1996年、急性心筋梗塞のため、死去。64歳没。
料理研究家に転進した「石橋エータロー」
クレージーキャッツの中ではあまり目立たない存在でしたが、東洋音楽学校のピアノ科でクラシックピアノを学んだ本格派だった。
ご存じ彼の父は音楽家の福田蘭堂。NHKラジオ「新諸国物語・笛吹き童子」の主題歌の作曲者として有名だ。
エータローが3歳のとき、父の福田蘭童が女優川崎弘子と肉体関係を持つという「事件」を起こした。今で言う”不倫”である。福田蘭堂は責任を取って、エータローの母と別れて川崎広子と再婚。このためエータローは母と共に母の実家へ戻り、石橋姓となったそうです。また祖父は明治の洋画家、青木繁です。
谷啓が存命中は二人とも下戸(酒が飲めない)同士で仲良しだったようだ。みんなが飲みに行っても、二人はついて行かなかったそうだ。谷啓が家で転倒していなかったら、もっと長生きしただろう。お酒はほどほどにした方が長生きできることを物語るエピソードだろう。
昭和の無責任男『植木等』。ゴマすり・ホラ吹き何でも来い!だまって俺について来い! - Middle Edge(ミドルエッジ)