NBA「バスケの神様」であるマイケル・ジョーダン
1963年2月17日生まれのマイケル・ジェフリー・ジョーダン。
90年代、NBAのシカゴ・ブルズを6度もの優勝に導き、自身も5度のシーズンMVP、6度のNBAファイナルMVP受賞し、「バスケの神様」と呼ばれた。
さらに二度オリンピックに出場し、ドリームチームに2つの金メダルをもたらした、言わずと知れたバスケットボール界のスーパースター。知名度を含め、いまだに彼を超える選手は見当たらない。

マイケル・ジョーダンのダンクシーン!
1996年にNBA50周年を記念して選出された「NBA50周年記念オールタイムチーム」に当然の如く名を連ね、2009年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。

シカゴ・ブルズ時代を再現した精巧なフィギュア
《プレイスタイル》
ポジションは主にシューティングガードを務め、“Air”と形容される豪快なダンク、空中で体勢を変えてディフェンダーをかわすダブルクラッチなどで観客を魅了した。
《大舞台での活躍》
1993年ファイナル第6戦、試合終了前に、一人でディフェンスを突破し、非常に高い位置でのレイアップを決め、NBA3連覇に貢献するなど、大舞台での驚異的な勝負強さもマイケル・ジョーダンの特徴のひとつであった。
《優れた得点能力》
・シーズン得点王‐‐通算10回
・通算29,292得点‐‐歴代第4位
・一試合平均31.5得点‐‐歴代第1位
など、二度目の引退を表明した1997‐98シーズン終了時点で上記の記録を残していた。
マイケル・ジョーダンが引退してまで挑戦した野球『MLB』
そのマイケル・ジョーダンが一度目の引退をした後、バスケットボールと同じく、北米4大プロスポーツリーグの一つである野球・MLBに挑戦した。
全盛期での引退だけでなく、別ジャンルのプロスポーツ、しかもMLBに挑戦するニュースにアメリカから遠く離れた日本でも大きな話題となった。

「Michael Jordan: Basketball to Baseball and Back」
Michael Jordan: Basketball to Baseball and Back: Bill Gutman: 9781562949020: Amazon.com: Books
マイケル・ジョーダンが引退を表明したのは1993年10月だった。「自分の能力が頂点に達したらそれが衰える前に引退したかった」「今がまさにその時なんだ」と語った。他にも、NBAでの3連覇達成によるモチベーションの低下などが理由として推測された。
シカゴ・ブルズのチームメイトであるスコッティ・ピッペンは、この時のインタビューで「我々にいつも刺激を与えてくれ 感激させてくれる人をなくしてしまったよ」とコメントしている。

3ピート(3連覇)を達成した時のマイケル・ジョーダン
Historic NBA Picsさんのツイート: "Jordan after winning his 3rd NBA championship. https://t.co/QEGTk2xBoj"
この発表の数か月前に、父親を強盗殺人により失ったマイケル・ジョーダン。
最大の理解者であった父親の死も引退の理由のひとつと推測された。
また、父親と約束したMLB選手になる為に、世界最高峰の野球リーグに挑戦したのではとも言われている。

「マイケル・ジョーダン 父さん。僕の人生をどう思う?」
MLBを目指し、バーミンガムに入団
引退表明後、突然野球への転向を表明したマイケル・ジョーダンは、家族が住む地元シカゴのシカゴ・ホワイトソックスのキャンプに参加した。
ただ、ホワイトソックスのオーナーはシカゴ・ブルズのオーナーでもあるジェリー・ラインズドーフであったため、「コネ入団」と勘繰られ、反感を持った選手やファンも存在していた。
周囲のネガティブな評価を受けつつも、結局1993-94年のNBAシーズン開幕2日前にMLBのシカゴ・ホワイトソックス傘下AA級バーミンガムに入団することとなった。

バーミングハム・バロンズのキャップ
一方、「野球選手のマイケル・ジョーダン」は、専門家やスポーツ誌からの評価が著しく低く、プロの変化球を打つことは難しいと予想されていた。
実際にマイケル・ジョーダンは、18歳頃以来に野球に触れ、しかもかつてのポジションはピッチャーであり、バッターとしての実績が乏しかったのである。
そうした事実を証明するかのように、春頃の打撃は惨憺たるもので、最終的にも127試合の出場で打率2割0分2厘・11エラーと到底MLBに昇格することは出来ない成績だった。

外野守備でフライの捕球体勢に入るマイケル・ジョーダン
MLB昇格を目標に懸命に練習を続け、成績が向上
NBAで頂点を極めたマイケル・ジョーダン。
類まれなる身体能力は、野球の世界でも驚異的なもので、非常に驚かれたという。
また、それに加え、練習の鬼でもあった彼は、一回り年下の選手たちに混じりバスで遠征先を周り、朝からバッティング練習を行い、1日一日1000スイングを行うなど懸命に練習を重ねていった。
すると、その成果が成績にも表れ始め、夏頃には苦労した直球や変化球に対応し、ホームランを打つなど徐々に成績が上向いていく。
1994年の春季キャンプの時点ではスイングスピードが評価されており、数年続ければメジャーリーグに昇格するだろうと見るマスコミもあったという。
マイケル・ジョーダンがホームランを打った映像は、日本のニュース番組でもすぐに放映され、注目度の高さが伺えた。

バーミングハム時代のマイケル・ジョーダン
マイケル・ジョーダンは入団したバーミンガムで、シーズンの主催試合で通算48万人・全試合で90万人の観客を動員するなどそのスターぶりを発揮し、さながらMLB並の集客をもたらした。
また、殺到する観客にも嫌な顔をせず、プライベートでも時間の許す限りサインに応じるサービス精神も垣間見せた。

バッターボックスに立つシーン
しかし、1994年8月12日から翌1995年4月2日までの232日間にわたり、「MLBストライキ」が起き、マイケル・ジョーダンを取り巻く環境が変化、事態は深刻化していった。
ホワイトソックス球団は状況を打開するため、選手にオープン戦に出場するよう求め、従わない場合は施設の利用を拒否した。
球団社長はマイケル・ジョーダンにはこの処置を適用しないと約束していたが、球団関係者が約束を反故にしようとしたため、マイケル・ジョーダンとの関係が悪化していった。
この一件は、マイケル・ジョーダンがブルズに復帰する一つの契機にもなっていく。後に「面倒事に巻き込まれたくなかった」と本人も語っている。
そして、1995年3月に再びシカゴ・ブルズに復帰。
やはり「バスケの神様」の居場所はNBAのコートであった。
復帰の年こそ、重要な場面で些細なミスをするなど、本来の輝きとはやや異なったが、オフに翌シーズンへ向けてトレーニングに励み、バスケットボールの感覚を取り戻していく。
1995-96シーズン、マイケル・ジョーダンはチームメイトにも恵まれ、スコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンを含めた彼らは最高のトリオであった。そのシーズンにシカゴ・ブルズが打ち立てた、当時NBA史上最多の72勝10敗でレギュラーシーズンを終えたことからも、その威力が分かるだろう。
以降、再び最強のシカゴ・ブルズが3ピート(3連覇)を成し遂げることになる。
そして、マイケル・ジョーダンは1999年1月に2度目の引退を発表した。
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