1990年9月25日夜、事件は起こった。
この日の午後8時45分、ある名古屋市営バスの運転手が乗務中、路上に倒れている1人の女性を発見。頭部からは大量の出血をしており、運転手は救急車の到着が間に合わないと判断、バスでその女性を最寄りの救急病院へ搬送。その際、路線バス業界ではあり得ない2つの重大な規則違反をしたという事件です。
運転手は「市バスの問題児」と事務所では扱われていた。

運転手 加藤幸男さん
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このバスの運転手は、加藤幸男さんという方です。
1990年当時48歳。勤めてから28年目のベテラン運転手。
4人兄弟全員が、市バスの運転手という珍しい家庭に育った加藤さん。
この加藤さん、相当の頑固者で、市バスの事務所には加藤さんに対する苦情が多かったそうです。
そのため、市バスの上司は、加藤さんを「問題児」扱いしていました。

市バス事務所には加藤さんに対する苦情が絶えなかった。
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車内で騒ぐ若者をどなりつける。

バスの中で騒ぐ若者たち。
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公共交通機関であるバスの車内でのマナーを守らず、騒ぎまくっている若者。
バス停の直前になってから降りるボタンを押した彼らを、加藤さんは無視します。
怒る若者に、加藤さんは、「いい加減にしろ!迷惑だ!」とどなりつけます。
筋の通らぬことに対しては、とことん頑固に引き下がらない人だ、と、同僚の運転手さんは語っていました。
事件が起こった。

女性が落下した交差点の歩道橋。
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転落した女性は、悩み事を抱えて自殺を図りました。
そこに偶然通りかかった加藤さんの運転する市バス。
路線バスのルール。
路線バスには、名古屋に限らず、このようなルールがあるそうです。
乗客以外の問題で、決められた路線を外れることは禁止。
乗客がケガをしたり、急病になった時を除いて、路線バスは、定められた路線を外れることはできません。
そんなことをしたら、「路線バス」ではなく、「貸切バス」や「観光バス」のような扱いになってしまいます。
しかしこの日加藤さんが助けたのは、乗客ではなく、「路上の人」。
ここで1つのルール違反をしています。
路線バスが路線を外れるということは、結構重大なことのようです。
路線を外れるような時は、必ず事前に指令に連絡し、指示を仰ぐ。

事務所に「事後報告」を病院からする加藤さん。
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名目上は、「業務から逸脱すること」になるため、事前に上司の指示を仰ぐのは、当然のことです。
しかし、加藤さんは、この女性を救うためには一刻を争うと判断し、28年のキャリアで培った地理の把握をもとに、一番近い救急病院の場所を知っており、すぐさまそこに運ばないといけない、と判断し、事務所に連絡したのは、女性を病院に運んでからでした。
つまり「勝手に行動し、事後報告」という、路線バス業界のみならず、一般企業でもダメ!が当たり前になっていることを、加藤さんはしてしまいます。
また、消防署の位置も加藤さんは把握しており、比較的近くに消防署があるのに救急車が到着していないしサイレンの音も聞こえないということは、消防署の救急車がすべて出払っているからだと判断し、救急車の到着を待っていてはとても間に合わない、と判断したと語っています。
6名の乗客も救助に協力。

女性を助ける加藤さんと乗客。
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この時幸運だったのは、バスが満員ではなく、6名のみの乗客であったことでした。
けがをしている人は絶対安静であり、小さな乗用車ではとても運べません。
しかし、このバスなら、その問題はまったくありませんでした。
6名の乗客も、加藤さんの「助けたいのだが、協力してもらえないだろうか」という声に、快く協力したそうです。
こうして乗客の方の協力も得て、女性を病院に託し、血だらけのバスを事務所に送り、替わりのバスで、加藤さんは次の便のバスの乗務をします。
クレーム覚悟の翌日。
路線バスが路線を外れたという重大な事案が発生した翌日、市バスの事務所は、市民からのクレームに怯えていました。
しかしその朝の新聞に、前日の出来事が。

市バスが「救急車」になったと報じる翌日の中日新聞。
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新聞を見た市民から寄せられた電話は、クレームどころか、「あの運転手さんらしい快挙だ!」と、加藤さん、そして乗客の方の対応を称賛する声でした。
実は、誠実な乗務をしていた加藤さんは、有名な運転手で、マナーの悪い一部の人などからのクレームもあった半面、加藤さんの誠実さに好感を持ちながらも特に事務所に電話などしない人が大勢いたのでした。
そうした声がたくさん届いた加藤さんには、重大な規則違反に対する処罰は市バスもできませんでした。
女性の命だけでなく心も助けた加藤さん。

お礼に訪れた、助かった女性。
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加藤さんは直接、女性の命を救ったわけですが、それだけではありませんでした。
バスで運ぶ途中、女性に励ましの言葉をかけていたそうです。
この優しい言葉により、女性は、命だけでなく、心まで救われたと語ったそうです。
加藤さんのその後。
加藤さんは現在は退職され、第2の人生を、趣味に生きているそうです。
加藤さんは、この1件について聞かれ、「あの出来事の主役は自分ではない。自分の用事を捨てて一緒に協力してくれた乗客の皆さんだ。」と話しています。
また、車内で騒ぐ若者をどなりつけたことに対しては、「まあ、お客さんに怒鳴るというのは、やってはいけないことだね。反省している。でも、今同じ状況になったらまた怒鳴るだろうね。」とおちゃめなこともおっしゃっています。

また同じことをするだろうね、と語る加藤さん。
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サラリーマンは、会社の規則がすべてです。
規則を破れば、始末書から始まり、ひどいと解雇になります。
規則を守ることは、信用を得ることです。
女性を助けた加藤さんも、さすがに規則を簡単に破ったわけではありません。
兄弟全員が市バスの運転手ということは、規則を破れば彼らの顔に泥を塗ることにもなります。
それでも、規則を守ることよりも大事なことがある、そしてそれを決断して、実行した加藤さんのような方は、普通のサラリーマンを超越した、本当の「プロ」なのではないかと思います。
「規則さえ守っていれば何やってもいいんだろ」みたいに、軽く考えているビジネスパーソンが、私を含めて多くいると思いますが、「本当のプロ」になってみたいと思えるような、この話でした。