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「ミュージシャンの聖地」福岡で生まれる。
1961年2月27日、福岡県柳川市に、徳永英明さんは生まれます。
お父さんの仕事の転勤で各地を転々とし、そのために新しい環境に順応するためのスキルを英明少年は身につけていきます。
この「自分を売り込むスキル」を身に着けたことが、後の彼のミュージシャンデビューにつながります。

赤ちゃんの時の徳永英明さん
徳永英明 - YouTube
既に現在の面影が表れていますね。
中学校で「戦う男」に。
お父さんの転勤で、福岡から兵庫県伊丹市に引っ越し。
福岡では周りの子供のリーダー的存在だった徳永さんですが、関西では福岡弁をからかわれ、いじめを受けてしまいます。
苦痛にあえぐ徳永さんでしたが、当時、交換日記をしていた女子にいじめの現場を見られて発奮。
いじめっ子をぶん殴ります。
「実はケンカが強かった」徳永さんは、周りから一目置かれるようになります。

ケンカが強そうな徳永少年。
徳永英明 - YouTube
突然「啓示」を受ける。「お前は歌手になるんだよ」。
中学校からの帰り道、徳永さんは突然、「内なる声」を聞きます。
「お前は歌手になるんだよ。」という「啓示」のようなものを聞いたそうです。
当時徳永さんは、音楽にはまるで興味のない少年だったそうです。
非常に不思議な体験ですね。
井上陽水、ジミヘン・・・。
しかしその後、友人が貸してくれたレコードを聴き、「電気が走ったような」衝撃を受けたそうです。
井上陽水、ジミ・ヘンドリックスなどを聴いたと語っていました。
その中でも、同郷の井上陽水には影響を受けたそうです。
高校時代はなんと「ヤンキー」に!

リーゼントになった徳永さん。
徳永英明 - YouTube
昭和51年、伊丹市立伊丹高校に入学。
しかし、高校に入ると、徳永さんは「ヤンキー」になってしまいます。
髪型はリーゼント、バイクを乗り回し、勉強はせず遊びとバイトに明け暮れます。

バイクを乗り回す徳永さん。
徳永英明 - YouTube
歌への情熱を取り戻したキッカケは・・・。
しかし、徳永さんが歌への情熱を取り戻すのに、そう時間はかかりませんでした。
「けいこさん」という女子に一目ぼれ。
遠くから見ているだけだった徳永さんでしたが、チャンスは向こうからやってきました。
アルバイトをしていた飲食店に、その「けいこさん」がアルバイトとして入ってきます。

けいこさんへのLOVE SONG
徳永英明 - YouTube
「けいこさん」への想いを歌にします。
「シンガーソングライター・徳永英明」の誕生です。
もしかして「けいこさん」がいなかったら、徳永英明さんというアーティストは生まれていなかったかもしれないですね。
歌手になる夢を決める。
高校を卒業した徳永さんは、旅行関係の専門学校に入学。
しかし、2か月で退学。
歌手になる夢を決めます。
時を同じくして、またお父さんの転勤で、ついに昭和54年、東京に行くことになります。

上京した徳永さん。
徳永英明 ② - YouTube
レコード会社にひとりで営業に。
上京した徳永さんは、自分の作品をおさめたカセットテープを手に、レコード会社に自ら一人で「デモテープ」を渡し、聴いてもらうように頼み込みます。
しかし、歌手を目指す人は山ほどいる中で、営業努力はなかなか実を結びません。
なんとかきっかけを作りたいと、こんな番組に登場します。

「スター誕生」に登場した20歳の徳永さん。
徳永英明 ② - YouTube

熱唱する徳永さん。
徳永英明 ② - YouTube
動画で見ましたが、既に歌手の徳永さんの原型が出来上がっています。
しかし、決勝まで行きながら、その後のオファーはまったくなかったそうです。
これには驚きです。
イケメンで美声。当時の徳永さんは素人さんなわけですから、これでここまで歌うのは、
やはり天賦の才能があるのでしょう。
その後、芸能人養成学校に通いましたが、遊んで暮らしてしまい、きっかけはつかめないまま。
だんだん、歌手への情熱が冷めかけます。
しかし、その卒業時に友人から「お互い、有名になったらまた会おう」という言葉に衝撃を受け、自分の甘さに気づき、曲づくりをはじめます。
そこで出来たのが、「Rainy Blue」でした。
オファーに恵まれなかった徳永さんは、次の手を打ちます。
策士!

喫茶店(イメージ画像)
徳永英明 ③ - YouTube
徳永さんは、音楽業界の業界人がよく利用する喫茶店で、アルバイトを始めます。
そこで取ったウルトラC級の自分の売り込み方がすごいです。

策士!徳永さん。
徳永英明 ③ - YouTube
音楽業界の業界人が喫茶店を利用するのは、ほとんどが仕事の打ち合わせです。
つまり、会計の時に、領収証を請求するわけです。
そこでまず、会社の名前がわかる。
音楽会社だとわかると、徳永さんは領収証と一緒に、なんとデモテープを渡したのです。
すごいアイデアだと思います。
ついにきっかけをつかむ。
この策が功を奏し、徳永さんに声がかかります。
「Rainy Blue」をひっさげ、「第2回マリンブルー音楽祭グランプリ」を受賞します。

ついにビックタイトルをつかんだ徳永さん。
徳永英明 ③ - YouTube
24歳での遅咲きデビュー。
遅咲きデビューを果たした徳永さんは、「なめられてなるものか」と、初めからスターとしてふるまおうとします。
しかし、それが周りのスタッフの猛反発をかい、朝5時まで延々と六本木のポリネシアンパブで説教をされたそうです。
なかでも一番怒ったのが、プロデューサーの鈴木キサブローさんです。
鈴木キサブローさんは、ものすごい数のアーティストに楽曲を提供している人です。
誰でも知っている曲では、H2Oの「想い出がいっぱい」などがあります。
この名プロデューサーにさんざん説教された後、「頑張ろう」と励まされ、徳永さんは号泣し、考えを変えたと語っていました。
しかし、続いてリリースしたシングル「夏のラジオ」、アルバム「radio」はさっぱり売れず、レコード会社から早くも「次がダメならクビ」と言われてしまいます。
「輝きながら・・・」のリリース
背水の陣となった徳永さんの次のシングルが、あの名曲「輝きながら・・・」です。
実はこの曲を作った人は鈴木キサブローさんでした。
数々のアーティストに提供している鈴木キサブローさんですが、徳永さんに提供したのはこの曲のみです。徳永さん自身も、唯一他人の作った曲で、やりにくかったと語っています。
しかし、この曲がなければ、その後に続く輝かしい徳永さんの活躍はなかった、とご本人も認めています。

フジカラーCMタイアップ曲「輝きながら・・・」
徳永英明 ④ - YouTube
続いて、ナショナルのエアコン「エオリア」のCMタイアップ曲「風のエオリア」も大ヒット。

ナショナルエアコン「エオリア」CM
ナショナルエアコン エオリア CM 1988年 - YouTube
この2曲が、初期の徳永さんをイメージづけたのは揺るぎない事実であると思います。
しかし、徳永さんの歌いたかった曲は、この大ヒット曲たちではなかったそうです。
本当に徳永さんが歌いたかったのは、「最後の言い訳」という曲であると語っています。
珠玉のバラードです。
こうしてみると、徳永さんは、「輝きながら・・・」のような熱唱系ではなく、バラードを歌いたかったのかな、という気持ちがします。
順調だった人生が、病に侵されることに・・・。
その後、「壊れかけのradio」が大ヒットし、順調な人生を送っていた徳永さんを、病が襲います。
この後については、記事を改めてご案内したいと思います。