90年代を代表するGK・チラベルト
1965年7月27日、パラグアイ・ルーケ生まれ。
本名ホセ・ルイス・フェリックス・チラベルト・ゴンサレス。愛称はチラ。
長らくパラグアイ代表のGK(キーパー)を務めた。南米だけでなく、世界的にも知名度の高い90年代を代表する名GK。
【個人データ】
・身長:188cm
・体重:92kg
・利き足:左足

チラベルト
【所属クラブ】
・スポルティボ・ルケーニョ(1982-1983)
・グアラニー(1984)
・サン・ロレンソ(1984-1988)
・レアル・サラゴサ(1988-1991)
・ベレス・サルスフィエルド(1991-2000)
・ストラスブール(2000-2003)
・ペニャロール(2003)
・ベレス・サルスフィエルド(2003-2004)

アルゼンチンのサン・ロレンソに所属していた1985年頃のチラベルト
好戦的な性格でもあり、ブラジル代表のロベルト・カルロスに試合後ツバを吐きかけたり、試合中も接近した相手選手の頭を撫でて神経を逆なでしていた。
1989年に挑戦したスペインのリーガ・エスパニョーラでは、レアル・サラゴサに所属。最優秀外国人プレイヤーに選出される等、活躍した。
他にも個人タイトルを数多く獲得しており、1996年には「南米最優秀選手賞」を受賞。GKでの受賞はチラベルトが初だった。「IFFHS選定世界年間最優秀GK賞」は3回 (1995年、 1997年、1998年)受賞。
また、1995年と1997年には「世界最優秀GK」に選ばれている。
他にも1999年の「IFFH選定20世紀世界最優秀GK 」で第6位、ワールドサッカー誌選出の「20世紀の偉大なサッカー選手100人」では第55位と非常に高い評価を受けている。
得点能力の高いGKだったチラベルト
チラベルトは、得点を取れるGKとしても有名だった。
キャリアをスタートさせたスポルティボ・ルケーニョでの計4得点を皮切りに、所属した各クラブで多くの得点を挙げている(0得点だったクラブもある)。
中でも1991年から2000年まで在籍したベレス・サルスフィエルドでは、341試合の出場で48得点とフィールドプレイヤー並の得点源となった。
主な得点方法はFKとPKであった。

プレースキック(地面に置かれたボールを蹴るプレイ)を得意とした!
1999年にはサッカー史上で初めてGKでのハットトリックを達成。3得点ともPKによるものだった。
また、この試合後の会見で、PKを1試合で3度も外した事のある、アルゼンチン代表で前年の「南米年間最優秀選手賞 」を獲得しているマルティン・パレルモに対して「パレルモ、ボールはこうやって蹴るものなんだぜ」と挑発した。

ボカ・ジュニアーズで活躍したマルティン・パレルモ
チラベルトはフリーキックの際に、相手ゴール前まで移動し、フリーキッカーを務める事が多かった。ガッチリとした体格から放たれるシュートは勢いがあった。また、GKという事もあってか、GKの取れないポイントを狙い、カーブを効かせての得点も決めた。
チラベルト自身「私はワールドカップでゴールを決める最初のキーパーになりたい」というように、得点への欲求が高かった。結果的にはワールドカップでの得点はならなかったが、予選時には得点を決めている。
1998年ワールドカップで優勝したフランスを相手に大善戦!
+++サッカー名選手館+++ホセ・ルイス・チラベルト(Jose Luiz Chilavert)
1998年6月28日、ランスで行われたこの試合。
互いに一進一退の好ゲームだったが、決定機をものにしたのは、この大会で優勝する事になるフランスだった。ジネディーヌ・ジダンを擁し、この大会以降2002年のワールドカップまで最強を誇るチームだが、この試合はポストにも嫌われ、あわや地元大会の1回戦で姿を消す所だった。
しかし、負けはしたもののパラグアイは、チラベルトが鬼気迫るセービングをし、チームを鼓舞し続けた。敗戦が決まり、ショックで立てないチームメイトに「もう泣くな、我々はサッカーの試合に負けたわけであって、決して人生に負けたわけではない」と声を掛けている。
日本との関係

チラベルト
かつてチラベルトが所属したスポルティボ・ルケーニョに、元日本代表の武田修宏が移籍して来た際、「日本のマラドーナが来た」と騒がれた。その名付けはチラベルトであった。
ちなみに武田の歓迎試合として同クラブとパラグアイ代表が対戦している。

スポルティボ・ルケーニョ時代の武田修宏

ガッツポーズのチラベルト
最後に残念なお知らせ。下記画像が激太りした近年のチラベルト。
現役時代の骨太で男らしい身体つきから一変している。
ライザップを是非とも勧めたい。

近年のチラベルト