ある日、山田恵一は、合同練習が終わった後、藤原喜明に
「おい、ボク、ボクシングやったことあるか?
ちょっとやってみようか?」
といわれた。
そしてボクシングのスパーリングが2R行われ、ボコボコにされた山田恵一は終わった後、
「ありがとうございました」
といって頭を下げた。
すると後頭部を
「ボカンッ!」
とやられ、しかも殴った藤原喜明が笑っている。
猛烈な怒りがこみ上げた山田恵一は、
「テメー、ブッ殺してやる」
すると藤原喜明は目つきが変えて
「オウッ、殺してみろ」
ケンカのようなスパーリングが始まり、再びボコボコにされ、最後は馬乗りになられ、周囲が止めに入るまで殴られ続けた山田恵一は、気づけば、寮の自分の部屋に寝ていた。
頭部にダメージを受けたためか、猛烈な吐き気がしたが、その日の夜、藤原喜明から電話が入り、
「大丈夫か?」
といわれ、
「ハイッ、練習ありがとうございました。
失礼なこといってすみませんでした」
「オウッ、気にすんなよ。
俺はお前みたいなヤツ、好きなんだよ。
また明日から頑張ろうな」
山田恵一は、うれしくて気持ちの悪さなど吹き飛んでしまった。
その後も藤原喜明にボクシングのスパーリングの相手に指名され、藤原喜明が若手に関節技を教える「藤原教室」にも参加。
前田日明は、山田恵一が新日本プロレスに入門した直前にイギリスから帰ってきたばかり。
同じ寮に住みながら雲の上の存在だったが、
「ハチベエ、渋谷行くぞ」
といわれ、遊びに連れていってもらった。
「もうハンパじゃない
レスラーの中には素人にナメられちゃいけないってのが強かったからさ。
力が強い、技術でも負けない、それはいいんだけど、酒飲む量でも素人に負けちゃいけない!
だから飲め!って。
飲まされて記憶なくなったこといっぱいあるもんね。
前田さんと飲んだら、だいたい帰りは記憶ないよ。
それに前田さんと高田さんが一緒に飲むとキングコングとゴジラ。
高田さんは素っ裸で踊ったりするんだぜ!
前田さんは強そうな人みるとケンカしたがるし、そういうの止めるの大変だったんだから!
もうメチャクチャ!」
山田恵一は、そんな高田延彦が行きつけの店で女性店員に
「新しい子入ったの?
頑張ってね!
応援してるわよ」
といわれて一目惚れし、
「この人のために頑張ろう」
と思い込んでトレーニング。
高田延彦が出かけるときは、連れていってもらえるように「僕、ヒマです」アピール。
新日本プロレスの寮には、
「座敷わらし(小さな女の子)をみた」
「誰もいないはずの2階の廊下を歩く音がする」
など数多くの怪奇現象の噂があり、テレビ番組の企画で除霊のために呼ばれた霊能者に、
「これは俺の力じゃ無理だ」
といわれ、山田恵一は高田延彦と一緒にバットを片手に1部屋1部屋、チェックしたこともあった。
アマチュアレスリングの試合でドロップキックを放って反則負けしたことがあるという破天荒なドン荒川は、イタズラが好き。
寮に住む若手に、
「夜中に霊がベンチプレスをする。
深夜3時を過ぎてガチャンガチャンと音がしたらそれだ」
と吹き込んだ。
すると深夜3時、本当に道場からガチャンガチャンと音がするため、真偽を確かめるため、山田恵一たちは恐る恐る道場へ。
そして扉を開くとベンチプレスをする人影が。
「で、出た~っ‼」
絶叫して寮に逃げ帰った後、道場では笑いが起こった。
ベンチプレスを挙げていたのは佐山聡。
笑い声の主は、隠れていた藤原喜明、ドン荒川、小林邦昭。
彼らが仕組んだイタズラだった。
続いてドン荒川は、
「昔、この辺で進駐軍の黒人兵士が殺されて、幽霊になって夜な夜なアメリカ国歌を歌う」
という話を聞かせ、200cm120kg、父親が岩国基地所属の黒人アメリカ海兵隊員だったという「人間バズーカ」ジョージ高野に軍服を着せ、前田日明の枕元に立たせた。
すると前田日明はドン荒川に
「怖いから一緒に寝てください。
僕が荒川さんの部屋に行きますから」
と懇願。
ドン荒川は
(しめた)
と思いながら、了承。
自分は部屋のドア側に、前田日明を窓側に寝させた。
外では佐山聡が釣り竿を持ち、小林邦昭が糸の先につけたアルコールを含んだ脱脂綿に着火。
窓の外に火の玉が出現すると前田日明は部屋を飛び出て朝まで帰って来なかったが、ドン荒川は、そのとき顔面を踏みつけられ、鼻血を出した。
山田恵一は、アントニオ猪木が入場するとき、
「はーい、どいてどいて」
といいながらガード。
しかし群がる人数が増え、過激なファンがガウンや髪の毛を引っ張ったりすると、
「どけ!オラァ」
とブッ飛ばした。
しかし外国人レスラーの世話係になると、サーベルを持ったタイガー・ジェット・シンや223cm、236kgのアンドレ・ザ・ジャイアントは、平気で客に手を出すため、唖然。
ダイナマイト・キッドが
「フランキー」
と呼ぶので理由を聞くと
「オデコが出ていてフランケンシュタインみたい」
といわれた。
そして試合中、セコンドについているとウインクをしてくるので
(試合中だよ!)
と困惑。
ダイナマイトキッドは、180cm、98kg。
背は低いが圧倒的な筋量を誇り、ヘビー級に負けないパワーを有する肉体を持つ上、命を削るような危険を顧みない激しいファイトが身上。
山田恵一は強く影響を受け、たゆまぬ努力で170cm、95kgという肉体をつくり上げた。
ハルク・ホーガンが鉄柱攻撃を受けて流血したので、あわてて
「アー・ユー・OK?」
と聞くと、思い切り右手で顔面を叩かれ、腰が砕けて倒れ込むと、200cm、120kgの「人間バズーカ」 高野俊二に
「動くな」
といわれ、運び出された。
ブルーザー・ブロディーが日本人を侮辱する言葉をいったとき、思わず睨むと、肩を小突かれ、周りが止めに入ったこともあった。
生中継のとき、坂口征二に
「誘導だけはちゃんとやれよ」
といわれ、外国人レスラーの控室を何度も往復していたが、ワインを飲みながらポーカーをやっているアンドレ・ザ・ジャイアントに
「お前も飲め」
といわれて、一気飲み。
出番が来て
「お時間です」
といってもアンドレは、
「イヤだ。
俺は行かない」
といってニヤッと笑い、ギリギリまで動いてくれない。
やっと入場となり、そのままセコンドについたが山田恵一は、赤い顔をしていたので怒られた。
試合後、外国人レスラーのコスチュームを洗濯するのも仕事だったが、スケールの大きな外国人は臭いもビッグだった。
「キングコング・バンディのマントなんか、気を失いそうになるくらい臭くて・・・」
この頃、新日本プロレスは大きな問題を抱えていた。
タイガーマスク人気で常に超満員。
なのに契約更改で、ほとんどのレスラーが現状維持。
さらにその後、行われた株主総会で新日本プロレスは
「売上19億8000万円、利益750万円」
と信じられない数字を発表。
理由はアントニオ猪木は個人事業「アントン・アイセル」
ブラジルにあるサトウキビからアルコールを抽出し「バイオエタノール」を精製する会社で、ブラジル政府は石油の代わりにバイオエタノールを燃料として使用する計画を進めていた。
アントニオ猪木は自民党の政治家に
「アントンハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ、逆にやめるよう説得された。
実際、プロジェクトを進めていくと様々な問題が起こり、追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレによって経営は悪化。
アントニオ猪木はテレビ朝日に放送権を担保に12億円の借金をしたが補い切れず、新日本プロレスの収入の大半をアントンハイセルの補てんに回してしまった。
しかしこれは新日本プロレスで働く者にとっては社長の私的流用。
怒った長州力は試合を無断欠場。
山本小鉄、藤波辰巳らも新団体設立を画策。
稼ぎ頭であるタイガーマスク(佐山聡)は、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に契約の解除を告げて、引退宣言。
「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
結局、社長のアントニオ猪木、副社長の坂口征二、営業本部長の新間寿は辞任。
山本小鉄らが新しく経営を行うことになり、クーデター側の勝利に終わったかにみえたが、テレビ朝日の重役の
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらウチは放送を打ち切るよ」
という一言で逆転。
アントニオ猪木は社長に、坂口征二は副社長に復帰した。
新日本プロレスに戻ることができなかった新間寿は新団体「UWF」の設立を画策。
新日本プロレスのプロレスラーやかつての部下に声をかけて引き抜いていった。
入門して8ヵ月が過ぎた山田恵一は、猪木に
「オマエどこでデビュー戦がやりたい?」
と聞かれ、山田恵一は、
「両国国技館」
といいたかったが、グッと堪え、
「後楽園ホールでやりたいです」
1984年2月29日、前田日明が、この日の合同練習を最後に新日本プロレスを離脱し、UWFへ移籍。
3日後の3月3日、山田恵一は、後楽園ホールでデビュー戦を行った。
超満員の後楽園ホールで第2試合、15分1本勝負で小杉俊二と対戦し、5分17秒、片エビ固めで負けた。
その後、寮で初めての後輩ができた。
それは、
武藤敬司
蝶野正洋
橋本真也
船木誠勝
野口章(AKIRA)
森村方則(リッキー・フジ)
の6人だった。
武藤敬司は、2歳上だったので「後輩でありアニキ」
柔道で全日本3位という経歴を持ち、体に恵まれてバネもあり、格闘技センスも抜群だった。
「2つ歳上だったんで大人っぽくみえました。
麻雀もできたから、よく坂口さんとかに誘われて雀荘にいってましたし、あの頃から上の人とうまくやっていたんじゃないかな。
スター候補として誰もが一目置いていたというか。
僕が入門は1年先輩だったけど、絶対に負けたくないと思っていて・・・
天才に対する凡人のヒガミだよね。
他の人もみんな武藤に負けたくないって思ってたよ」
蝶野正洋も1歳上。
山田恵一は、蝶野正洋より座高は高かったが、身長は16㎝も低かった。
つまり蝶野正洋は足がすごく長く、山田恵一は短足で、獣神は重心が低かったのである。
そんなスタイルのいい蝶野正洋は、給料を手渡しでもらうとすぐに川崎の風俗街へ。
山田恵一は、まったくそういう遊びはせず、部屋で怪獣フィギュアをつくった。
一心不乱医ウレタンを削り、張りつけて怪獣をつくり、部屋の多くのスペースをゴジラたちが占領。
もう1つの趣味が食虫植物の栽培で、小学生の園芸部時代から食虫植物が好きで大量に育てた。
「蝶野も大人っぽかったかな。
割とクールな感じで。
下戸だったんですけど、入ってすぐに無理やり飲まされて台所でひっくり返っちゃって。
急性アルコール中毒だったと思いますけど。
ちょっとしてから三鷹の暴走族のリーダーやってたって聞いて、こんな大人しいやつが?って驚きました」
橋本真也は、1歳下。
思考がほぼ一緒で1番仲の良い後輩だった。
「一緒にいろいろバカやりました。
橋本は、よくご存知のように、どこまでいってもトンパチ(無鉄砲)
入った頃は、明るくて人懐っこくて、山田さん、山田さんってくっついてきて」
ある日、合同練習が終わった後、いつものように全員がリングに上がって正座。
そして橋本真也の
「正面に対して礼」
という号令で全員が新日本プロレスのシンボルマークに向かって礼をして、
「ありがとうございました」
その隣にアントニオ猪木の大きな写真があり、橋本真也の
「社長に礼」
という号令で
「ありがとうございました」
いつもならこれで終わりだが、副社長である坂口征二がいたので、ドン荒川が橋本真也、
「副社長にも礼っていえ」
と指示。
もちろん冗談だったが、わからない橋本真也は坂口征二に向かって、
「副社長にも礼‼」
その瞬間、坂口征二はすごい勢いで立ち上がり、橋本真也を殴打。
120㎏以上ある橋本真也の体がフッ飛ばされるのをみて、山田恵一は
「怖ッ‼」
と思った。
そして後になって
「1番悪いのは荒川さんだよな」
と気づいた。
船木誠勝は、中学卒業直後の15歳。
入門前から山田恵一のことを雑誌などでみて、
「体がすごい」
「腕が大きい」
と思っていた。
入門1週間後、新日本プロレスのバスが巡業から戻ってきた。
夜の12時を過ぎていたが、船木誠勝は、バスを降りて合宿所に入ってくる先輩1人1人に挨拶と自己紹介。
1番最後に入ってきた山田恵一に挨拶すると
「オッ、よろしく」
その後、食事のとき
「お前、どこ出身だ?」
と聞かれ、
「青森です」
「青森か!
じゃあズーズー弁しゃべってみろよ」
といわれ、青森の言葉を話していると新潟県佐渡郡出身の小杉俊二に
「バカにすんな!」
といわれて叱られるのを目撃した。
後輩ができた山田恵一は
「イタズラ王」
と呼ばれるほど、イジり倒した。
ある後輩は、ジャンケンに負けると電柱にくくりつけられ、山田恵一にチャンコの残りやマヨネーズを投げつけられた。
野毛道場および合宿所の初代管理人兼料理長である太武経(ふとりたけつね)は、毎週土曜日に飲みに行くのが習慣だった。
山田恵一は、大量のネコを捕獲し、留守中に太武経の部屋に入れた。
太武経が帰ってドアを開けると猫がウワッと出てきて、山田恵一は、そのリアクションを楽しんだ。
また後輩がセミが嫌いだと知ると大量のアブラゼミを捕獲。
留守の間に100匹近くのセミを部屋に放ち、帰りを待ち、部屋に入った後輩が悲鳴を上げるとドアを押さえつけて脱出を阻止。
「アブラゼミだけに出てきたときは汗まみれでしたね」
新日本プロレスにはビンに入った特大のサロメチールがあり、藤波辰巳に
「これはすごい薬。
切り傷以外は何でも効く。
打ち身、捻挫、腰痛や肩こり、火傷に虫刺され、頭痛にはこめかみに、歯痛には頰やあごに塗るんだ。
万能薬だ」
と教わった山田恵一は、寝ている後輩の局部にサロメチールを塗付。
飛び起きて
「痛い!」
「熱い!」
と叫ぶのを楽しんだ。
沖縄のビーチで「アントン牧場」で育った牛をレスラー30人と関係者で1頭丸ごと食べるという焼肉大会が行われたとき、山田恵一は、ビーチに穴を掘り、後輩に入るよう指示。
後輩は穴に入り、大量の砂がかぶせられて顔だけ出た状態に。
山田恵一は、口紅で化粧を施し、海藻のウィッグを頭に乗せ、額にツマヨウジを刺していった。
ある新人が寮に入ってきたとき、船木誠勝に命じ、浴槽で首を絞めて落とさせ、自分はフタをして、その上に乗った。
山田恵一がデビューした1ヵ月後、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた。
事前に貼られたポスターには、中央にマイクを握った新間寿が大きく配置され、
「今、新しいプロレススが始まる。
わたしは数十人のレスラーを確保した。
新間寿復活宣言
私はプロレス界に万里の長城を築く。
UWFオープニングシリーズ
4月11日(水)大宮スケートセンター」
というフレーズ。
右側に、アントニオ猪木、タイガーマスク、前田日明、ラッシャー木村、マサ斎藤、剛竜馬、藤原喜明、高田延彦、長州力、アニマル浜口の顔写真。
左側に、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ローラン・ボック、ボブ・バックランド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カーンの顔写真。
しかし実際に新間寿が集めたレスラーは、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田の4人だけ。
これに新日本プロレスからのレンタルで来た高田延彦を加え、彼らは、この開幕戦で外国人レスラーと対戦した。
大宮アリーナは超満員だったが、試合が始まるとインチキに気づいた客が怒り、罵声を飛ばし、さらに
「イーノーキ、イーノーキ・・・」
「チョオシュー、チョオシュー・・」
「ドーラゴン、ドーラゴン・・・」
「フッジッワラ、フッジッワラ・・・」
と猪木コール、長州力コール、藤波辰巳コール、藤原喜明コールを起こして抗議。
これに怒った前田日明は、外国人レスラーをロープに飛ばし、戻ってきたところにフライングヒールキック。
この日、日本に到着し、何の打ち合わせもなくリングに上がった外国人レスラーは、
「最初はマエダを徹底的に痛めつけ、客の不安といら立ちがピークにっしたら、最後にこっぴどく負ける」
とヒールとして試合を盛り上げ、客を喜ばすために全力を尽くそうと思っていたが、前田日明のくるぶしがモロに顔面に入って、一瞬、失神。
前田日明は、ほとんど意識のない外国人レスラーをジャーマンスープレックスで投げ、8分13秒、フォール勝ち。
鼻、口、さらに目からも出血している外国人レスラーは数人のに支えられながら控室に戻った。
UWFは旗揚げ戦こそ満員だったが、第2戦の熊谷、第3戦の下関、第4戦の岐阜はガラガラ。
東京の蔵前国技館で行われた第5戦は、半分ほど埋まり、新日本プロレスから1日レンタルで藤原喜明が参戦し、メインイベントで前田日明と対戦。
前田のジャーマンスープレックスに藤原が右足をフックしてディフェンスし、倒れた 2人が立ち上がれず、ダブルノックダウンで引き分け。
試合後、前田日明は
「今日の試合は今までの試合とは全然違うんだよ
お前たちにはわからないのか!」
とマイクアピールしたが、多くの観客は途中で席を立ち、最後まで聞いた者はほとんどいなかった。
この後、新間寿とグラン浜田が離脱。
UWFは、所属レスラーが3人に減った上、スポンサーなし、カネなし、外国人招聘ルートなし、なしなしずくしで再スタートした。
藤原喜明に接触し
「1番強いアンタが必要なんです」
といって新日本プロレスから引き抜こうとした。
35歳の藤原喜明は、アントニオ猪木のようなスター性も、元柔道日本一の坂口征二やオリンピック出場の長州力のように華やかなポーツ歴も、藤波辰巳のように鍛え上げられた体も、前田日明のような大きな体も、佐山聡のような身体能力もない。
しかし関節技アリの寝技スパーリングでは誰にも負けず、道場破りが来れば、必ず挑戦を受けて退けた。
なのにリングでは地位が低く
「番犬」
と呼ばれていた。
アントニオ猪木に相談しようと
「UWFに・・」
といった途端
「えっ、お前と誰が行くんだ?」
といわれ、
「なんだ、俺って新日本に必要ないんだって上に俺よりも誰かの方が大切なんだってことか」
という気持ちになって移籍することを決めた。
「堂々とUWFに移った。
俺は誰も裏切ってないからね」
新日本プロレスをやめる直前、藤原喜明は、藤原教室の生徒を集めて
「俺と高田は辞める。
もしお前らの中についてきたい人間がいるなら、高田の部屋に集まれ」
と伝えた。
山田恵一は、ちゃんこ番だったために行けず、後で船木誠勝から話を聞き、さらに高田延彦に
「待ってるから」
といわれたが行かなかった。
「新日本に拾ってもらったという恩があったし、デビューして間もない立場で自信も何もないので。
これでダメだったらレスラー辞めるしかないのかな?とか色々考えた」
藤原喜明と高田延彦はUWFに移籍した後、ドン荒川が若手の指導をしたが、藤原教室の生徒だった山田恵一と船木誠勝は「荒川教室」には参加せずに別メニューをこなした。
1984年8月、新日本プロレスはパキスタン遠征を行ったが、山田恵一は、このときから藤原喜明に代わってアントニオ猪木の付き人になった。
「初の海外遠征だし、しかも猪木さんの付き人ですからワクワクなわけですよ」
毎日、
「社長、1時間前です」
といってアントニオ猪木を起こさなくてはならないが、ある日、自分が寝坊。
謝って怒られるのがイヤだったので、
「社長、30分前です」
といってごまかすとアントニオ猪木は、いつものように
「おお、悪い悪い」
といって起きてきた。
帰国後、代官山のアントニオ猪木のマンションを初めて訪問。
エレベーターで上がって扉が開くと直接部屋につながっていて、驚きながら中に入ると倍賞美津子がイスの上でアグラをかいて座っていて、再び驚き、
「ご苦労さま」
といわれ、
(かっこいい!)
と感動。
その後、倍賞美津子が道場に来たとき、練習を見学していた子供たちに
「あのオバちゃん知ってるか?
すごい人なんだぞ」
というと、すかさず
「オバちゃんじゃないでしょ」
と怒られた。
1984年9月、UWFに続き、長州力、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、キラーカーンなど12選手が新日本プロレスを離脱。
新団体「ジャパンプロレス」をつくり、ジャイアント馬場の全日本プロレスと業務提携を結び、そのリングに上がった。
一気に選手数を落とした新日本プロレスは、箱根で強化合宿。
山田恵一は、
「これからどうなっていくんだろうって思いはあったかもしれないですけど、やっぱり上の選手が抜ければ下はチャンスが巡ってきますから」
と前向きな気持ちで練習。
1985年3月、第1回ヤングライオン杯が開催。
小林俊二、後藤達俊、佐藤直喜、武藤敬司、畑浩和、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝と総当たり戦を行い、準優勝。
(優勝は小林俊二)
半年後の1985年9月、第1次UWFが活動を停止。
12月、新日本プロレスとUWFが業務提携。
リングでは、新日本プロレス vs UWFの抗争が開始。
山田恵一は、前田日明や高田延彦、特に藤原喜明が戻って来たことがうれしかった。
1度出ていったUWFに対して新日本プロレスには微妙な空気が漂っていたが
「関係ねえ」
とばかりにUWF道場を訪ね、練習に参加。
久しぶりに藤原教室で汗をかき、前田日明にスパーリングで押さえ込まれ、耳元で
「ハチベエ、あんまり調子に乗るな」
といわれた。
そしてUWFとの5対5マッチやアントニオ猪木とタッグを組んでUWF勢と戦った。
隔月刊マンガ雑誌「ジャストコミック」で山田恵一をモデルに古舘一郎監修、国友やすゆき作によるマンガ「スープレックス山田くん」が連載開始始。
「デビューして1年以上経って、自分の体の小ささをコンプレックスじゃなく、個性として捉えるよになってた頃。
白い中に1つ黒い点があれば目立つわけで、なんだ、あの動き回ってる小っちゃいのは?って思われるように心がけて、オリジナルのあすなろスープレックスを編み出したり、ダイナマイト・キッドみたいにダイナマイトヘッドバットをやったり・・・
コンプレックスや弱点を武器にできると強いですよ」
ちなみに「あすなろスープレックス」は、前かがみになった相手を抱えて、投げる技である。
1986年3月、山田恵一は順調にキャリアを積み、第2回ヤングライオン杯で初優勝。
4月、前座で橋本真と対戦し、蹴られてサンドバッグのようになりながらもアキレス腱固め、バックドロップ。
そしてタイガーマスクのように体からぶつかるきれいなフライング・クロス・アタック。
自分より30kg重い橋本真也を持ち上げてパイルドライバー。
さらにコーナーに上ってダイナマイト・キッドのようなダイビング・ヘッドバットを決め、13分45秒、3カウントを奪った。
1986年5月、新日本プロレス vs UWFの5対5の勝ち抜き戦が行われた。
UWFは、
先鋒 高田伸彦
次鋒 山崎一夫
中堅 木戸修
副将 藤原喜明
大将 前田日明。
新日本は、
先鋒 山田恵一
次鋒 坂口征二
中堅 越中詩郎
副将 木村健吾
大将 藤波辰巳。
先鋒の山田恵一は、高田伸彦と対戦。
ゴングが鳴ると、いきなり左ハイキックを食らってダウン。
その後、高田伸彦の腕十字固め、下から三角絞め、上からのアームロックにもUWFスタイルで対応。
そしてスープレックス、顔面踏みつけ、ボディスラム、ギロチンドロップなどプロレス殺法で攻め、最後は、後ろ回し蹴りでダウンし、アキレス腱固めを極められ ギブアップした。
3ヵ月後の8月、初代タイガーマスクであるマーク・ロコが新日本プロレスに
「アイツを連れていきたい」
といったのがきっかけでイギリスに遠征。
「イギリスといえば、キャッレスリングの本場だし、佐山(聡)さんや前田(日明)さんも遠征されていたという部分で興味もあったので渡りに船でした」
リヴァプールのマーク・ロコの家に下宿し、週に数回ある試合の日は、ASW(オールスターレスリングプロモーション)の代表、ブライアン・ディクソンが車に迎えに来て、レスラーでギュウギュウ詰めの状態で試合会場へ。
試合はロンドンで行われることが多く、リヴァプールからは片道3時間かかった。
「フライング・フジ・ヤマダ」の名前でリングに上がり、試合後はレストランに入って6人前のフィッシュ&チップにビネガーをたっぷりかけて食べ、帰宅するのは真夜中。
山田恵一は、アメリカ流のパワフルな派手なプロレスではなく、テクニック重視のイギリスのプロレスにカルチャーショックを受けながら技を磨いた。
フライング・フジ・ヤマダは、ベビーフェイスとして人気を獲得し、マーク・ロコが持っていた世界ミドル級王座を奪取。
「自分にとっては初のベルトだったし、私生活でもプロレスでもロコさんには本当にお世話になりました」
1987年5月、イギリス遠征後、カナダのカルガリーへ。
ステイ先の安達勝治(元プロレスラー、ミスター・ヒト)の家に着くと後輩の笹崎伸司、森村方則、馳浩がいたので
「お疲れ様でございます。
ご無沙汰しております」
と挨拶し
「やめてくださいよ」
「なんで敬語なんですか」
と気を使わせた。
自分以外後輩という状況にヤンチャとイタズラを繰り返し、ある日、試合で脚を痛めたフリをして周りに雑用をさせてサボり、作業が終わった後で
「うっそピョーン」
と告白。
それを安達勝治の奥さんにみられ、
「いい加減にしなさい!」
と叱られた。
安達勝治が運転する車の中でもよおしてきて、
(オシッコしたいな)
と思ったが
でも停まってもらうのは悪いな)
と空の紙コップの中に出した。
するとお尻が温くなってきて、みてみると紙コップに穴が空いていて、座席がベチョべチョ。
「ウワッ!」
とあわててコップを窓の外に投げたが、窓枠に当たって跳ね返り、笹崎伸司の顔にかかった。
練習で頭を強打し、開頭手術を受けた森村方則の見舞いに行き、頭からチューブが出ていたので引っ張って遊んでいたが、その後、試合でパイルドライバーを受け、首を痛め、1ヵ月ほどリングに上がれなかった。
全日本女子プロレスからデビル雅美や小松美加がやってきたので、朝食のときに屁をこいた。
しかし変な感じがしたので部屋に戻ろうと立ち上がるとデビル雅美に
「山田さん、漏れてる、漏れてる」
といわれた。
元国語教師で、後に国会議員、そして大臣にもなる、いつも冷静な後輩、馳浩は、それを笑ってみていた。
1987年8月、11ヵ月間の海外遠征を終えて日本に戻ったとき、山田恵一はロン毛になっていた。
「海外で散髪屋でなんてオーダーしていいのかわからなくて・・・
最初は自分で切ってたんですけど、そのうち放っておいたらドンドン伸びて・・・」
1987年8月21、22日、「サマーナイトフィーバー・イン・国技館」が両国国技館で行われ、その中の「IWGPジュニアヘビー級王者決定トーナメント」1回戦が凱旋ファイトとなったが、高田延彦に敗北。
翌日、船木(誠勝)を相棒にしたタッグマッチで、初めてシューティングスタープレスを出した。
それはコーナー上からリングのに寝ている相手に向かって跳び、体を回転させながらのボディープレス。
その名の通り、流れ星のように美しい技に会場はどよめいた。
「あれは初日で出すべきでしたね!」
1987年10月19日、アントニオ猪木のタッグパートナーという大役がやってきた。
きっかけは4ヵ月前の6月12日、山田恵一がカナダにいたときに起こった事件。
新日本プロレス両国大会のIWGP決勝戦、アントニオ猪木vsマサ斎藤は、14分53秒、バックドロップを切り返して体固めでアントニオ猪木が勝利。
その直後に大事件が発生!
1ヵ月前に新日本プロレスに復帰し、マサ斎藤のセコンドについていた長州力がリングに上がってマイクで
「藤波、オレは自分たちの時代をつくるために3年間、叫んできたんだぞ!
藤波、前田、噛みつかないのか!?
今しかないぞ、オレたちがやるのは!」
とアピール。
解説者として放送席にいた藤波辰巳、前田日明はリングに上がった。
アントニオ猪木猪木は
「テメーら、いいか。
その気で来るなら、俺は受けてやる。
テメーらの力で勝ち取ってみろ!
コノヤロー」
と応戦。
前田日明は、
「ゴチャゴチャいわんと誰が1番強いか決まるまでやればいいんだよ.
決まるまで!」
藤波辰巳は、
「やるぞ‼!」
と絶叫。
新日本プロレス、UWF、長州力の維新軍の団体間のイデオロギーの戦いに加え、世代交代の闘争が勃発。
この後、アントニオ猪木は右肩剥離骨折を負って欠場。
復帰戦でタッグマッチを希望し、相手に藤波辰巳&長州力を指名。
自らのパートナーは「X」としていて明かさなかった。
そして試合当日、藤波辰巳と長州力がリングインした後、アントニオ猪木が謎のパートナーを従え入場。
若手が壁をつくり、アントニオ猪木の後ろに隠れるように入場したのが山田恵一だった。
山田恵一は、あまりに場違いな人事に藤波辰巳に指を刺されたが、試合が始まると長州力に張り手を見舞うなどイケイケで攻めた。
しかし藤波辰巳が羽交い締めにされながら、長州力のリキラリアートを食らい、73秒でフォール負け。
さらにリングの上に寝ているとアントニオ猪木に足蹴にされ、場外に排除された。
山田恵一は、その後、手応えを感じることができない試合が続き
「俺、何やってるんだろう」
と日々、悩み、周りからも
「海外遠征行く前のほうが良かった」
といわれ、完全にスランプ状態。
これを打開するために「骨法」を習い始めた。
1年前、イギリス遠征に出る前にアントニオ猪木 vs ボクシングの元ヘビー級チャンピオン、レオン・スピンクスの異種格闘技戦が行われ、アントニオ猪木は、その備えのために骨法の道場で練習した。
それに武藤敬司と船木誠勝も同行し、武藤はすぐにやめたが、船木は道場通いを継続していた。
山田恵一は船木誠勝に
「一緒にやりましょうよ」
と誘われ、
「俺は手足が短いし、関節も硬くて可動域も狭いから向いてないよ」
と断ったが
「いや関係ないですよ。
日本人の体型に合った格闘技なんで」
といわれ、試しにいってみたところ、
「面白い!」
と思った。
世田谷の多摩川沿いにある野毛道場で合同練習とチャンコが終わると、原付バイクでに乗って東中野の骨法道場にいき、2時間練習。
その後、隣のラーメン屋でラーメン&チャーハンを食べ、19~21時まで骨法の道場生と一緒にし、さらに22時まで自主練。
掌底打ちや浴びせ蹴りを習得した。
「プロレスは顔面へのパンチは反則ですけど、掌底だったらOKだし、浴びせ蹴りや竜巻蹴りも脚の長さは関係ないし、プロレスに取り入れられそうだなと。
骨法のセンスは船木の方がありましたけど、僕もかなり通い詰めました。
嫁の実家の福岡に引っ越すまで続けてたんで、5、6年は出稽古いってたかな。
シリーズオフのときは、寮からバイクで40分くらいかけて東中野の骨法の道場にいって、マンツーマン以外にも一般の会員さんに混じって合同練習に参加して」
海外遠征から帰って4ヵ月後、1987年12月、両国国技館で船木誠勝と対戦。
骨法の技術をぶつけ合って、最後はイギリス仕込みの技術で押さえ込んで勝利。
ファンや関係者に
「いい試合だった」
と評価された。
1987年11月、タッグマッチ中にサソリ固めを決めた長州力の顔面を前田日明が蹴るという事件が起こった。
長州力は眼窩底骨折という重症
1988年2月1日、新日本プロレスは前田日明を解雇。
4月8日、前田日明が第2次UWFので設立記者会見。
山田恵一は、目標だった高田延彦がUWFへ戻っていくと心のポッカリ穴が空いた。
UWFに対して
「道場でやってること」
それに対してプロレスは
「たくさんのお客さんに楽しんでもらうために道場で磨いた技術+アルファのものがあってこそ」
と考えていた。
5月8日、第2次UWF旗揚げ戦の4日前、山田恵一は、有明コロシアでキックボクサーのドン・中矢・ニールセンと異種格闘技戦。、
関節技で勝機を見出そうとしたがキックのラッシュを受けて立ち上がることができずTKO負けした。
「ニールセンは、前田さんがすごい試合をやって勝ってましたし、このときは会社から「やってみるか?」っていわれて「ぜひやりたいです」って。
骨法を含めて自分の腕がどれほど通用するか試したかったのもあるし、なによりUWFにも世間にもバカにされたくないっていう気持ちが大きかったんです。
プロレスが1番スゴイっていうのを信じてやってましたから、絶対に勝たなきゃっていう気持ちでしたけど、厳しい戦いになりました。
タックルで倒すまではいくんんですけど、ロープブレイクありのルールなんで逃げられちゃって。
何度目かのタックルを仕掛けたとき、カウンターで後ろ回し蹴りを食らって、ヤバイって」