「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

1980年代に起こった漫才ブームの中で横山やすし・西川きよし、通称「やすきよ」は不動の王者だった 。実力派若手との共演、対決も多かったが「ライバルは?」と聞かれた横山やすしは「相方」と答えた。そして西川きよしは猛獣使いか調教師のごとき見事なムチさばきで荒ぶる相方と対峙した。


木村雄二は、終戦の前の年、母親の故郷、高知県、沖ノ島で生まれた。
生後間もなく父親の暮らす大阪府堺市神石市之町へ移ったが、母親は産後の肥立ちが悪く、島に残った。
1945年3月13日には大阪大空襲があり、そういう厳しい状況下でやすしを育てたのは近所に住むタキヨさんという女性で戦争が終わるとお母さんになった。
父親は堺市役所のコック。
タキヨは堺駅近くの竜神橋町で遊郭を経営し、家には3日に1度しか帰ってこず、毎日16時に帰ってくる父親のためにご飯をつくるのが雄二の仕事だった。
雄二は中学生のとき、同級生の岡田好弘を誘い、朝日放送ラジオの「漫才教室」という素人参加型オーディション番組に応募。
2人は雄二が書いた台本で練習。
大阪の放送局に向かうと審査員をしていた漫才作家、秋田實に絶賛された。
そして2人は中学卒業後、松竹芸能に入社。
秋田實の弟子となり「堺正スケ・伸スケ」と命名された。
入社して1ヵ月後、通常、新世界のジャンジャン横丁にある安物小屋「新花月」で経験を積んでから花の「角座」に出ることができるところ、堺正スケ・伸スケ は、
「天才少年漫才師」
というふれこみで、いきなり角座でデビュー。
会社の期待は大きかったが15歳という年齢で伸スケはいわく
「子供の発想で子供の言葉になってしまう」
「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」
という子供でも大人でもない中途半端な漫才はすぐに飽きられてしまった。
売れなくなってしまうと正スケ(岡田くん)は
「もう辞めたい」
といって廃業。


デビュー2年で1人ぼっちになってしまった伸スケは
「いまさら家には帰れん」
と競艇選手を目指したが、競艇学校のテストの中の視力があり、合格基準は1.0だったが0.1しかなく不合格。
「コンビ別れをしたんか。
いっぺん遊びに来い」
横山ノックに誘われ、ノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きだった伸スケは弟子になった。
横山ノックにしてみると師匠である自分の持ち物やそれがある場所を完全に覚え、タバコを吸おうとするとライターを出し、出かけるときは靴と靴べらを揃えるなど非常に気がつく
「天才的な弟子」
だったという。
そして
「日本一の漫才師になれ。
今日から横山を名乗れ」
とノックにいわれた堺正スケは「横山やすし」に改名した。


横山やすしが横山ノックに弟子だったのは1年間。
漫才をするには相方とコンビを組まなくてはならないが、この1年の間に

・横山プリンと「横山やすし・たかし」
・レツゴー三匹の正児と「横山やすし・たかし」

を組んだが、いずれも長続きしなかった。
「要領の良さは天下一品ですね。
例えばノックさんが引っ越されたときに2人でいくでしょ。
『師匠来ました!』『やりまーす』『はい、正ちゃん、机運ぼう』って大きな声でいうてね。
運んでるん僕ですわ。
『はい、次イスや、イス』『よっしゃよっしゃ』
向こうの部屋におるノックさん、やすしよう働いとるな思うでしょ。
ずっとそんなんですわ」
というレッツゴー正児は一緒に汗をかかないやすしに
「こんなんイヤやな」
と思い、コンビを解消。
やすしは
「コンビ別れの名人」
といわれるようになった。

「いつか天下とったる」
「いつか見返したる」
そう思いながら芸人として鳴かず飛ばずが数年続いた。
その間、スクーターの後ろに芸人やストリッパーのお姉さんを乗せて大阪中の劇場を回り白タクのアルバイト。
スクーターは、大卒の初任給が1万2千円だった時代に20万円のスクーターを買ってもらったもの。
生涯
「港、港に俺を待ってる女がいる」
といい続け、そういうことも上手なやすしは、いつの間にか女性と一緒に住み始め、やがてアルバイトもやめた。
「これではアカン」
と思いながらもズルズル溺れていってしまった。


しかし芸人としての生活はキッチリ守り続けた。
1足しかないクツは、いつもピカピカ。
1本しかないズボンは毎日アイロンがけ。
メシを抜いてでも床屋にいって自慢のオールバックのアイロンも欠かさない。
「コッペパンしか食べてへんときでも散髪はいっとりました。
ワシがパン食べていることはお客さんはわからんけど舞台でしっつれいなカッコウはしたらアカン」

しかし仕事はなくヒモ暮らし。
「情けない」
「ワシ、これからどないなるんやろう」
「一体いつ天下とれるんや」
女も随分泣かせたが、やすしも大阪の夜の底で泣いていた。
そんな状況をみかねた先輩芸人、歌謡浪曲師の中川礼子が
「あの子はどうやろ」
と当たりをつけてやすしに紹介した。

西川きよしは、まだかけ出しの新喜劇俳優。
初舞台は熊役、その後も端役で出演していたが、ある公演の最終日、幕が下りたステージ上でワンワンと泣き出したことがあった。
「どないしたんや」
「もうこんなエエ役、2度とないと思うたら・・・」
「お前、入ったばかりやないか」
周りは笑い、
「泣き虫キー坊と呼ぶようになった。
決して演技はうまくなかったが、なんでも一生懸命にやるきよしは、その健気さでかわいがられた。

西川きよしも横山やすしと同じ高知生まれの大阪育ち。
「ウチは何で貧乏なんやろう。
なんでお米が買えんのやろう。
なんで腹が減るんやろう。
いつも疑問に思っておりました」
事業で失敗した父親と逃れるようにやってきたため、大阪湾に面した町での生活は貧しかった。
しかしこれが西川きよしの原動力。
10歳のときから八百屋、牛乳配達、新聞配達などのアルバイト。
八百屋で野菜を売りながら
「スター」
「一攫千金」
を夢みていた。
中学でサッカーにハマり、高校でもサッカー部に入ることを希望していたが、タクシー運転手をしていた父親が十二指腸潰瘍で倒れ、進学を断念。
自動車修理工に就職したが手のやけどが原因で17歳のときに退社し、会社の先輩から芸人の道を勧められ吉本入り。

西川きよしの行動は早い。
新喜劇のマドンナ女優だったヘレンは、アイルランド系アメリカ人の父親と日本人の母親を持ち、その名はヘレン・ケラーに因む。
都合が悪くなると
「私外人やから、日本語わかりません」
とギャグと大阪弁をしゃべる美人外国人として大人気だった。
あるときうめだ花月でヘレンが高熱を出し、とにかくゆっくり休ませなくアカンと思った作家が
「誰か近くに住んどるヤツ、おらんか?」
と周囲に聞くと
「近くです」
と答えたのが西川きよし。
それからが早い。
「もうタクシー用意できてます」
といい
「おう、頼むで」
と作家がいい終わる前にヘレンを担いで消えた。
2日後、ヘレンの母親から作家に
「娘が家に帰ってこない」
と電話がかかってきた。
驚いて作家は西川きよしに確認。
「どないなってんねん」
「ヘレンは『まだ少し熱があるんで僕の家におる』というてます。
ウチのお母さんとキャーキャーいいながら仲良うしてますわ」
作家はなにかおかしいと思ったが、案の定、2人はその後、結婚するといい出した。
ヘレンの母親は
「海のものとも山のものともわからん男に娘は渡されへん」
と猛反対。
西川きよしが
「ヘレンを吉本喜劇から辞めさせます」
というと
「ヘレンのほうが会社に貢献してくれてる」
「何でヘレンが辞めるんや。
お前が辞めたらエエがな」
と吉本も大反対した。


一方は売り出し中のお姫様。
一方はただ目玉がデカいだけの男。
会社が反対するのも仕方なかったが、西川きよしは
「こんなハイエナだらけのとことに恋人を置いとけません」
「結婚を認めないなら2人そろって引退する」
と引かなかった。
それにきよしはただ目がデカいだけではなかった。
この数年前に時代劇風コメディ「てなもんや三度笠」で主演した藤田まことは、斬られ役とのかけ合いのオチで
「俺がこんなに強いのも当たり前田のクラッカー!」
と胸元からクラッカーを印籠のごとく出したが、これが大当たりし、最高視聴率、64.8%という人気番組となった。
これでスター街道を走りだした藤田まことは、馬面でアソコも馬並み。
平均日本人男性の倍はあるといわれ、
「銭湯で腰掛けると引きずって隣から流れてきたカミソリの刃でケガをした」
という伝説を持つ。
そして藤田まことと共に
「関西3馬」
といわれたのが、横山ノック、西川きよしだった。

会社と関係が悪化した西川きよしとヘレンは、愛はあるがお金はなく、食事はいつもインスタントのワンタンメン。
それを毎日続けてたが、そこに「アホの坂田」こと坂田利夫も居着き、実質、ヘレンが2人の男を食わしていた。
そんなとき、西川きよしは先輩の中川礼子に
「1度、お見合いしてみたら?」
といわれた。

きよしにとって横山やすしは2歳上。
コンビ別れを繰り返す男と聞いていたので緊張しながら指定された喫茶店にいった。
「おうっ!」
椅子に座っていたやすしは手を振って呼び、第一声で
「俺な、お前と漫才でけへんかったら困るんや」
といった。
「やってもらわな困るって・・・
僕まだ新喜劇に出てるわけですからね。
イコール、はよ芝居を辞めて俺と漫才してくれな困るぞということを初対面でいうわけですから・・・ビックリしました。
ほおーこんな人もおるんやなというね」
西川きよしは驚くと同時に
「リッチになれるかもしれない」
「ワンタンメンから逃れられるかもしれない」
と心を揺さぶられた。


1966年5月21日、「横山やすし・西川きよし」が結成された。
しかし西川きよしは、漫才は素人。
劇場のボイラー室や非常階段で、やすしとの猛烈な特訓が始まった。
「漫才というものは標本があって標本がない。
キャリアがあるからしゃべりが上手とか、新人だからしゃべりが下手だとか断定し切れるものではない。
しゃべりというのは個人の特技である。
それに色づけするテクニックを取り入れて初めてキャリアが裏づけ証拠するだけの話である」
そんな漫才哲学を持つやすしの書く台本は、同じ時間でも原稿用紙は倍。
つまりしゃべくりのスピードも倍。
きよしは、その台本を3度読んでから、やすしとネタ合わせ。
1つの漫才をモノにするために、ひたすらそれを繰り返す。
2人は毎日、必死に練習。
人生の勝負がかかっていた。


1966年6月、結成した次の月には京都花月で初舞台を踏んだ。
きよしはマジメで考え込むタイプ。
出番前、硬くなる相棒にやすしは声をかけた。
「リラックスせいよ。
好きにしゃべったらエエ。
ワイがうまい具合にやったるさかい」
いくらキャリアを積んでも、この構図は変わらなかった。
本番前はいつも舞台下で
「よーし」
とガッツポーズをとって気合を入れるきよし。
それをみて
「なにを力んでんねんな。
やる前から・・・」
とあきれるやすし。
すかさずきよしは
「いや、やる前やからや!」
といった。


横山やすし・西川きよしは、次々と笑いを起こしていった。
自分たちの発言で客席がドッと笑い、その波のようなエネルギーを全身で受けるのはステージ上に立つ者しかわからない快感だった。
しかし問題もあった。
劇場での漫才は、1日数ステージあるが、やすしは、ステージの合間に一杯飲むことがあった。
きよしは、それに強い違和感があった。
「ひょっとしたら次のステージも笑わしたるぞっという気持ちでビールを飲んで餃子を食べてたかも知れませんわ。
でも僕はちょっと違うのと違うかと内心思ってるんですけど、先輩でもありますし、漫才師としても力のある人ですし、こんなことくらいで日頃の腕が鈍るオレやないっていう雰囲気も持って帰ってくるわけですよ。
外からね。
でも酔ってちゃ間をはかれませんからね。
ほいで出ますわ。
もうやれませんもんね。
もう冷や汗ですわ。
大恥かいて帰るわけです」
(西川きよし)

(なんでこんな1杯や2杯の酒で負けなあかんのや)
頭にきたきよしは、バラバラで帰ろうとするやすしに
(いうべきことはいわなければいけない)
と無理やりついて一緒に帰り、やがて
「待てよ」
と声をかけた。
やすしは止まろうとしない。
「待ていうてるやろ」
ときよしは前に回った。
「2つ目の舞台全然アカンかった」
「なにをいうとんねん。
客、ドッカンドッカン笑うとったやないか」
「酒でロレツ回らんとな、舞台なんかできるかいな」
「そんなことか。
あれくらいの酒なんともあらへんわ」
やすしはいい捨て、歩き出した。
しかしこういうのがきよしには許せない。
「待て」
追いかけて肩をつかんで振り向かせ、顔を殴った。
2人は取っ組み合いの殴り合いを始めた。
その後も本番が終わる度、必ずといっていいほど舞台袖でアドリブや間のことなどでケンカ。
殴り合いに発展することもあったが、先に手を出すのは必ず西川きよしだった。

しかし周囲はそれを決して止めない。
それは劇場を何よりも大事に考える吉本のルールだった。
「我々は終生、製造メーカーに徹しないといけない。
新製品を次々と世に送り出す。
劇場はそのためのショーウインド、ショールーム。
テレビは芸の出来高を発表するメディア。
劇場で鍛えられたタレントの息は長い。
消耗品になりたくなければ舞台で腕を磨きなさい。
芸のないお方は淘汰されてしかるべきでしょう。
芸の修理が利くのは舞台。
舞台では笑いの値打ちがすぐに計算できる。
ウケなかったらどこが悪いか研究し直して次の舞台で修正すればよろし。
テレビはそれができん。
だから吉本は劇場を大事にするんです。
漫才でもウケないと舞台を降りてからどつき合いのケンカをしてます。
それでも周囲が仲裁に入ってはいけません。
死なん程度にトコトンやらせればいい。
それが吉本の芸人訓練法ですな」
(林裕章、創業者一族の林正之助の娘と結婚し吉本に入社し、最終的に会長となった)


1967年4月5日、横山やすし・西川きよしは上方漫才退床新人賞を受賞した。
そのときの横山やすしは
「勝負はやっぱり勝たなアカンよ」
とコメント。
その後も賞を総ナメにしていった。
横山やすし・西川きよしは売れっ子芸人に仲間入りし、TVの仕事もドンドン増えて寝る暇もないほどの忙しさになった。
9月27日、西川きよしとヘレンが周囲の反対を押し切って結婚。
「トンビが揚げをさらった」
といわれた。

「白黒つかん勝負は好かん」
というやすしはスポーツなら個人競技派。
野球は基本的に嫌いだが高校球児の情熱は好き。
プロ野球は
「金がからんどる」
と大嫌い。
そして自身、
「マラソンの練習や」
といって毎日、走った。
家から花月までマラソン通勤したり、テレビ、ラジオと忙しい合間もストイックに走り続けるやすしの目標は
「フルマラソンの国際大会出場」
あるとき高速道路の出口手前で渋滞に巻き込まれ
「走ろう」
といって現場に向かってきよしと一緒に走ったこともあった。

1968年、
「大卒者が社会に出る歳までに家を建ててやる」
そう思っていた西川きよしは、22歳になる前に自分の家を建てた。
この後も収入が増えるに従って次から次へ大きな家に引っ越していったが、ずっと坂田利夫はついてきた。
「だんだんだんだん売れて収入が、少しのお金が、大きい幸せになってくれるんですよ」
という西川きよしだが、仕事を終えて家に帰ると坂田利夫が待っている。
「キー坊、まあ一杯飲め」
「アホか、俺の酒や」
「なに怒ってんねんな。
まあ座れ」
「俺の家や!」
「キー坊、なんか最近、家が狭くなってきたなあ」
「お前がおるからやろ!!」
西川きよしはついに目をむいた。

順調に愛と幸せを育んでいく西川きよし。
一方、横山やすしは、売れれば売れるほど、なぜか怒りっぽくなっていった。
売れなかった頃に冷たかった人間が手のひらを返したように近寄ってくる様をみて
「なれなれしゅうすな、ドアホッ!」
と思っていたのだ。
当たり前のことかもしれないが、やすしはこういうことが許せなかった。
1969年4月、きよしがマイホームを建てた翌年、やすしは澄子と住之江競艇上のボートの上で結婚式を挙げた。
7ヵ月後、やすしの長男、一八が、その4ヵ月後には、きよしの次男、弘志が生まれ、2人は同級生として仲良く育った。
一八は西川家に泊まりにいったとき、家族全員が同じパジャマ、そして健康のためにノーパンで寝ているのに驚いた。
しかもパジャマは囚人服で、みんな頭におそろいの帽子までかぶっていた。
一八もそれを着さされ、スースーとノーパンを初体験した。


1970年12月2日深夜、TV局での仕事が終わった横山やすしは、友人と酒を飲んだ後、家に向かって高速道路を運転していた。
すると追い越し車線から前に入ってきたタクシーが接触した上、そのまま走っていく。
「オドレ、待たんかい!」
怒るやすしはパッシングとクラクションを連発させながら追走。
下道におりて停まったタクシーに歩み寄った。
「コラァ」
出てきた運転手もケンカ腰で相手をにらんだが、横山やすしだとわかった途端、
「アンタ、横山さん?
TVに出てる横山やすしさんとちゃう?」
と態度を軟化。
しかしやすしはこういうのが1番嫌い。
「やすしやったらどやっちゅうねん。
人と人が話してんねやろが!
芸能人なんか関係あらへんわ!」
すると売り言葉に買い言葉で相手も激昂。
口論が続き、やがてウンザリしたやすしは財布からお金を取り出し
「もうこれでええやろ」
「フンッやっぱり自分が悪いんやないか」
これで限界。
「なんやとコラァ」
やすしは運転手をボコボコにしてしまった。

一般人なら単なる傷害事件だが、横山やすしがやったとなると新聞の一面に載る大事件。
その見出しは
「酔って『正義やでぇ』」
その衝撃は日本中をかけ抜け、やすしは激しい非難の嵐を浴びた。
全番組降板、無期限謹慎処分となった上、連日、マスコミに追いかけられた。
「こういう事件を起こすとは想像もできませんでした。
口ではいいますけど手を出すってことは想像できませんでした」
という西川きよしは裁判を傍聴。
判決は懲役3ヵ月、執行猶予2年。
「なんでこんなにイジメられななアカンのや」
やすしは悔しくて悔しくて仕方がない。
「申し訳ない」
と思うのは運転手に対してではなく相方。
「コンビ解消されてもいかしかたない」
と覚悟。
しかし西川きよしは
「心配せんでも帰ってくるまで待つがな」
といった。

謹慎生活が始まると3ヵ月後に行われる別府大分毎日マラソンを目指し、練習に打ち込んだ。
そして同大会4連覇、東京オリンピックにも出場しクラレ(倉敷レイヨン)の監督をしていた寺沢徹に、練習に参加させてほしいと手紙を書き、鳥羽市で合宿していたクラレ陸上部と合流した。
「夕方から新人の選手と2人で『軽い練習』といわれたが、冗談、冗談、エラいキツい練習やった。
その夜初めて初めて選手の合宿の雰囲気に触れ、和やかなムードに酔ってしまい、ついでに酒にも酔ってしまった。
翌朝、朝食前に昨日の選手と谷村選手と俺と3人で準備運動の後、海岸通りを走った。
走り出したときは2人に合わせてしゃべっていたが、2、3km走るにつれてしゃべっていると足がついてこない。
自然と黙りこむと、すかさず谷村選手が話しかけてくるのはしんどかった。
さすがにこの人たちはよく走ると思った」
「寺沢さんがビールを注いでくれはったので頂戴しながら話を聞いていると、ランナーとして1番大切なことは走ることなのだそうである。
1に走り、2に走り、3に走ると、4に勝つといった風に話の内容を俺は俺なりに解釈していた。
とにかく勝つためには走る以外には手法はない」
その後もやすしは黙々と走り続けた。

12月30日、鳥羽での練習を終えて大阪に戻ると日本陸連から郵便が届いており
「別府大分毎日マラソン出場停止」
と書かれてあった。
理由は傷害事件。
やすしはその文字の上に赤マジックで
「絶対に勝ってやる」
と書いた。
しかし走ることはやめてしまった。

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