「暴れん坊」ハマコー
ハマコーこと浜田幸一
少年期
浜田幸一 - Wikipedia
政治活動
ハマコーの武功
当日、大平正芳と面会した際、大平に「浜田君、(この騒ぎ)何とかならんかね」と言われ、「わかりました」と返答し党本部ロビーへ向うと反主流派がバリケードを築いていた。党の備品である椅子や机でバリケードを築いた反主流派に対して自分の私的所有物でもない物品でバリケードを築いたことに怒りを爆発させる。
バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という演説を張る。
実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。
しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。
浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。 浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたと言う。
浜田幸一 - Wikipedia
政界引退後
浜田幸一 - Wikipedia
逸話① 「元ヤクザ」
千葉でヤクザをしていた
傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津のダニ」(「町のダニ」とも)の悪名をとった。TVタックルでは、富津のダニと言っていた。この渾名は当時(1951年(昭和26年))の地元の新聞記事でも用いられている。
自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団、稲川会初代会長の稲川聖城であった。
1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。
児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。
公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。
1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わったとされる。当選後ある議員[誰?]に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。
逸話② ラスベガス事件
ラスベガスのカジノで4億6000万円程度を一晩ですってしまった